読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

須佐之男の戦国ブログ

川中島決戦(三)勝利と敗北

http://pds.exblog.jp/pds/1/201001/09/60/c0119160_2120466.jpg

前書き

これまでのこの第四次川中島決戦で、武田晴信は悉く上杉輝虎に作戦の裏を読まれて、逆を突かれてきた感がありますが、当人の武田晴信からすればすべて想定の範囲であり上杉輝虎が簡単に自分の作戦通りに動くとは考えてはいませんでした。両雄ともに相手の事は研究し尽くしており、この八幡原で正面衝突するまでは武田晴信想定の範囲内に越後軍は動いていました。

しかしあれほど考えて実行したキツツキの戦法を一瞬で見抜いて武田本軍の正面に夜明けとともに現れた越後軍勢は完全に想定外であり正面決戦がこんな形で始まるとは到底考えていませんでした。

それでは武田軍はどうすれば良いのか? 晴信の冷静さは一向に失われいません。自分の想定内に再び相手を引き込む事であり、その為に何をすれば良いのかを瞬間的に考えました。間も無く越後軍が攻めてくる事は間違いが無く、その中で自分が取るべき最善の方法を考えたのです。

守りに徹せよ

武田晴信は八幡原の武田全軍を攻撃にも守りにも適した「鶴翼の陣」と呼ばれる鶴が羽を広げた様な陣形にすぐさま整えました。そして各部隊に指示を送ります。「決して相手を攻めず守りに徹せよ、絶対に攻めては駄目だ」という指令です。武田軍が不利なのは軍勢を二つに分けてしまったからであり妻女山に登った軍勢は必ずここに駆けつける。そうなれば上杉軍を前後から挟み撃ち出来る事になる。その状況になるまで被害を最小限にとどめる事が唯一の勝利への道であり、それまでは守りに徹して持ち堪ようと考えた訳です。

夜明けとともに上杉輝虎の越後軍は「車掛りの陣」と呼ばれる攻撃型の陣形になって武田晴信の鶴翼の陣に襲い掛かりました。非常に強力な軍勢が回転しながら常に新しい軍勢を繰り出してくるこの戦法に武田軍は防戦一方になりました。前備えと呼ばれる最前線部隊は瞬く間に壊滅し中備えの部隊がその後を継ぎ、一番の後方部隊である後備えにまで上杉軍の攻撃は及びました。後備えが崩されればもう部隊はありません。本陣に上杉軍は斬り込んできます。中備えと後備えは必死になって越後軍の猛攻に耐えていました。

上杉輝虎の作戦

時間が勝負の鍵である事は上杉輝虎も勿論解っていました。後方に分かれた武田軍が現れる前に本陣に斬り込み晴信の首を取る事が勝敗を分けます。しかし考えていたよりもはるかに武田軍の防御能力は高く簡単に攻撃が出来ていた訳ではありませんでした。

上杉輝虎の元に武田軍の軍勢の配置図が届きました。見ると右備えは晴信の長男である武田太郎義信の軍勢です。この配置図を見た輝虎は右備えへの総攻撃を命じます。しかもその指示は戦った後に負けたように見せて軍勢を引くように指示を出しました。

太郎義信は若い、こちらが引けば必ず攻めに出てくると見た作戦です。その通りで越後勢が引くと右備えは攻めの陣形に変わりました。そこを一気に側面から攻撃を加えて右側に穴を開け、キリで穴を開けていく様にして越後軍は武田軍の最後尾の部隊である後備えに襲い掛かりました。この部隊は晴信の弟である武田信繁が率いる部隊であり武田の軍師である山本勘助も入っています。越後軍は山本勘助を打ち取り、武田信繁も打ち取って後詰めの部隊を一気に崩すと晴信の本陣になだれ込みました。鶴翼の陣は完全に崩された事態に変わりました。

武田別動隊到着

この武田本陣に上杉軍が迫った時に上杉輝虎に報告が入りました。分かれていた別動隊の武田軍が到着し、後方の上杉軍に襲い掛かったとの連絡です。この報告を受けて輝虎は全軍を武田本陣に突入させる命令を出しましたが別動隊の到着を聞いた晴信は全軍に攻めの合図を出し、武田全軍が今度は上杉軍に襲い掛かってきました。今度は危なくなったのは上杉輝虎のほうです。

時間的に本陣を崩す事の無理を感じた上杉輝虎は越後軍全軍に善光寺にいる越後軍との合流を命じました。その後は全く形勢が逆転です。逃げる上杉軍を一方的に武田軍が追いかける展開になり、何とか越後軍は善光寺の部隊と合流し善光寺に陣形を構えました。その報告を聞くと晴信は武田全軍に引けの合図を出し、自分も甲斐に向かって引き上げました。この一日で両軍に膨大な死傷者を出した第四次川中島の戦いはこうして終わりました。

勝利と敗北

この戦国時代に最強と思われる両雄が正面から激突した第四次川中島の戦いで全く勝敗が付かなかったことが皆様にはお解りでしょうか?  人それぞれの考えがあり、武田が勝っていた、上杉が勝っていたと意見が分かれるのは仕方が無いと思います。

しかし両軍勢ともに多大な被害を出し、結局はその前の状況と殆ど何も変わっていません。

川中島という領土を守り、その地で踏ん張り続けたのは武田晴信です。この意味では武田の勝利だと思います。しかし上杉勢と比較して1000人以上も多くの戦死者を出し、その中には晴信の最も信頼してきた弟の武田信繁や武田軍の軍師であった山本勘助も含まれています。これを勝利とは絶対に呼べないと私は思います。

一方の上杉軍ですが武田軍と比較して戦死者も少なく重臣が打ち取られてもいません。しかし、それはこの一回の戦で武田軍を滅ぼすのをあきらめて善光寺に軍勢を移した結果であり決戦場から退いた結果です。これも勝利とは呼べないと思います。

この両雄ともに周辺国に勝ったのは自分であると報告していますが、両軍勢ともしばらくは戦に出陣する事も不可能な痛手を受けた訳でありいくら考えても「引き分け」としか言えない勝負だと思います。この後、もう一度両者は対戦しますが、それは両雄とも形だけの出陣でした。

この後上杉氏は戦の場を関東平野へと完全に移します。武田晴信も北への侵攻は完全にあきらめて今川義元織田信長に殺された後の駿河への攻略を開始します。この戦国時代の両雄がこの戦で感じたのは「勝利と敗北」の両方であり無理に強敵と争う事の無駄さを両者が感じたのは確実だと思います。

あとがき

今回のブログを含めて3回にわたって第四次川中島の戦いを記述してきましたがいかがでしたでしょうか?  この激戦を一度のブログで書ききるのは私の能力では絶対に無理でありどうしても複数回に分ける事になりました。ご了承ください。

この後に武田晴信三国同盟を一方的に破棄して太平洋側の海を求めて駿河に攻め込みますが甲斐という地理上の欠点をつかれて思わぬ経済制裁を受ける事になり、それを助けたのは今回激戦を繰り広げた上杉輝虎でした。

次回のブログはその状況を中心に取り上げた「敵に塩を送る」を記述したいと考えています。宜しくお願い致します。

 

 

須佐之男の戦国ブログ

川中島決戦(二)出陣

http://www.i-turn.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/09/DSC04912.jpg

前書き

これまでの三度、武田晴信上杉輝虎との正面からの戦いを避け続けてきました。

その理由は、この上杉勢に限っては自分の戦法である孫子の兵法である「風林火山」の戦法が全く通用しないからです。孫子の兵法は敵の内部に入り込み内部から裏切り者を出し、諜報員を巧みに送り込んで徹底的に敵戦力を弱体化させてから本格的な攻撃を始めます。ところがこの上杉輝虎という人物には最初から全く欲が無い為に内部を探る事も諜報員を送り込む事も不可能に近く内部崩壊は期待できません。うまく上杉の重臣に近づいてそそのかして武田側に付け反乱させる事に成功しても、この上杉輝虎は反乱が収まれば自分を裏切った部下を許して命も地位も決して取り上げません。こんな人間を相手にすれば孫子の兵法など何の役にも立たないのが現実でした。

なおかつこの上杉軍の動きはその神出鬼没さで武田軍を大きく上回ります。越後国内に入った武田の諜報員は上杉軍に動きがあればすぐに武田晴信にその軍勢の規模や進行するルートを知らせます。それを元に武田晴信は計算してどこにどれくらいの軍勢が現れるのか計算するのですが、現れる場所も軍勢の規模も現れる時間も武田晴信の計算をはるかに超えたところにいきなり大軍勢が出没します。これでは作戦を立てられる筈も無く、軍勢を動かす事も無理になります。

武田晴信が正面からの戦いを避け続けてきた訳はそこにあり、決して武田軍が臆病であった訳でも無く動けなかった訳です。第四次川中島の戦いはそうした状況の中で始まりかけていました。

敵に動きあり

今回も最初に動いたのは上杉軍でした。関東平野に出陣し、諸豪族を含めて10万人に迫る規模で小田原城北条氏政を包囲していた越後軍がいきなり城を囲むのを中断し三国峠を超えて善光寺平に1万3千人の兵力で現れたという報告は「敵に動きあり」というのろしとともに武田晴信に伝わりました。晴信はすぐさま武田勢2万人の軍勢を整えて出陣しました。

ところが武田勢2万が出陣したとの報告を聞いた上杉輝虎は実に不思議な行動を起こします。善光寺平に5000人もの兵力を残して約8000人の軍勢で川中島へと向かい始めました。この報告を聞いた武田晴信は越後軍の目的が川中島に建造された海津城を落とす事にあると確信します。海津城の兵力を増強して本隊は海津城に入らず越後軍が海津城を囲んだ後に城の中の兵力と本陣の兵力で一気に上杉軍を攻撃する作戦を立てました。

しかしこの武田晴信の作戦も見事に外れます。越後軍は海津城の前を悠然と通り過ぎ、そのまま武田領内に侵入し、武田領内の妻女山の頂上に陣を張るとピタリと動きを止めました。山の頂上に陣を張る軍勢を攻めるのは城に入った軍勢を攻めるのと同じであり極めて困難です。すぐに越後勢を攻める無理を感じた武田晴信は夜陰にまぎれて武田全軍を海津城に入れました。海津城と妻女山の頂上の越後軍との距離は直線で2キロほどであり、海津城からは武田軍の「風林火山」の旗が、妻女山の頂上からは上杉軍の旗印である「毘」と「乱れ龍」の旗がそれぞれはためく状況になりました。

こうなると両軍勢とも動けません。城を出て戦う事も山を下りて戦う事も自殺行為になり動きが取れない状況になります。武田の重臣たちはいっそこのまま越後に向かって侵攻しようと申し入れましたが、そんな事をやれば越後軍は兵隊のいない甲斐にそのまま攻め込みます。しかも武田軍が越後に向かうには善光寺の越後兵5000とまず戦わなければならず圧倒的に不利です。武田晴信善光寺に大量の越後軍を残して現れた上杉輝虎の意図をここで初めて知る事になります。敵を囲んで戦うはずだった武田勢が善光寺と妻女山の越後勢に挟み撃ちにされている状態になっており、囲まれているのは自分たちのほうであります。全く海津城から動けない状況になってしまいました。

キツツキの戦法

この膠着状態は10日以上も続きました。気が短いと思われていた上杉輝虎は全く動く気配を見せようとはせず、毎夜妻女山からは能を舞う声が聞こえてきて越後勢は能を見て楽しんでいる様子です。

この緊迫状態を打開する方法を考えて武田晴信に伝えたのは武田軍の軍師であった山本勘助だと言われています。彼はキツツキが虫を取る為に反対側から木をつつき、這い出た虫を捕まえるように武田軍を2つに分け、一隊が夜に妻女山の反対側から奇襲を仕掛けて奇襲に驚いて山を下りてきた越後軍を武田の本隊が八幡原で待ち伏せして襲い掛かるキツツキの戦法を提案します。

確かにこの作戦なら越後軍を壊滅させる事も可能で城にこもった武田全軍を動かす事も出来る訳です。武田晴信はこの提案を深く考えて実行する日取りを決め、この戦法で上杉輝虎の率いる越後軍と戦う決意をしました。武田が軍勢を動かすのはこの方法しかないのが現実だと晴信は考えたのです。

妻女山の上杉輝虎

キツツキの戦法を実行する事が決定し、その日も決まりました。

その作戦決行の前日に妻女山の頂上から海津城を見ていた上杉輝虎は炊飯の煙がいつもより明らかに多い事に気付きます。彼が越後軍を妻女山の頂上に布陣させた目的は守りを固める為では無く武田軍を動かす事にありました。

炊飯の煙がいつもより明らかに多いという事はそれだけたくさん飯を炊いている事であり、それは兵士の弁当にする為としか考えられない。今夜武田軍は必ず動く。上杉輝虎は一瞬で武田軍が苦労して考えたキツツキの戦法を見破りました。

越後軍全軍に指令が出ました。今夜武田軍は背後から攻めてくる、我々は全員その前に妻女山を下りて武田本陣がいる八幡原に布陣し夜明けとともに襲い掛かり一気に武田を滅ぼす。

やはり上杉輝虎は戦の天才であり、瞬間的に武田勢の作戦を全て見破って先手を打ちにかかりました。その夜、越後軍全軍は妻女山を下りて武田晴信が本陣を張る八幡原に急行しました。

やがて夜が明け、武田晴信の本陣も明るくなってきました。そこで武田軍は信じられない光景を見ます。いる筈の無い越後軍が目の前に軍勢を整えて襲い掛かろうとしている景色です。軍勢を分けてしまった事が災いとなり、武田晴信の率いる甲斐軍勢は窮地に追い込まれてしまいました。第四次川中島の決戦はこうして始まったのです。

あとがき

軍議と呼ばれた戦いの作戦会議を武田晴信はいつも重視して、どんな身分の侍の意見であっても有効だと思われる提案には積極的にそれを採用して戦に生かしてきました。

この晴信と全く逆で戦の作戦を一人で立て、周りの意見に一切左右されず、しかもその状況によってはいつでも自由に作戦を変更して実行していたのが上杉輝虎でした。

しかし彼は決して冷たい独裁者では無く自分が神の化身であるとの信念のもとに行動していた人物でした。国造りについてもこの両者は全く違った手法を取っています。

国内の問題を解消し、洪水を無くし石高増やして平和な領国を作った武田晴信に対して上杉輝虎が行った国造りは諸国との貿易です。この諸国とはこの時代は日本国内が主でしたが上杉氏は彼自身がトップセールスマンになって越後の産物を日本中に営業して回りました。これは二人の性格も関係していますがその領国の違いも多分にあると思います。山だらけの甲斐とは違い越後はコメの産地で有名であり、この二人の戦国大名の領国の財政状況は全く違います。佐渡から金山が発見されるのは上杉謙信の死後ですが、金山とは関係なく越後は非常に豊かな領国であり府内湊は日本海で最高の貿易港でした。

しかしこれは上杉謙信より武田信玄が劣っていたという事では決してありません。この川中島での決戦で絶体絶命に立たされた時に武田晴信はその真の力を発揮して甲斐の軍勢を守り抜きます。この状況でこれが他の武将であれば確実に滅ぼされていますが的確な判断と冷静な指示によって逆にこの合戦で徐々に上杉輝虎を追い詰めていったのは武田晴信の才能としか言いようがありません。

この二人に共通しているのは非常に自分に厳しい事です。上杉謙信は死ぬまで自分が決めた仏教の戒律を守り抜き、武田信玄は自国に全く新しい法律を作って自分も例外では無くその法を守り抜きました。全くタイプの違う二人ですがかなり共通点も多いのが現実でそれが歴史の面白さだと私は思います。

さて、次回はいよいよ決戦に突入します。この戦いの最初から最後までを「川中島決戦(三)勝利と敗北」として書きたいと考えています。この戦いでこの二人は何を得て何を失ったのでしょうか?

次回も宜しくお願い致します。

 

須佐之男の戦国ブログ

川中島決戦(一)決戦への道のり

http://livedoor.blogimg.jp/clock510/imgs/b/e/bebef4d7.jpg

前書き

前回の「桶狭間の戦い」から、今回は場所を甲斐と越後の国境であった「川中島」へと移して、数回に分けて記述していく予定でおります。

この第四次川中島の戦いは「桶狭間の戦い」の翌年の永禄4年(1561年)行われた甲斐の武田氏と越後の上杉氏との正面からのまさに決戦であり、この戦による戦死者は上杉軍が3000人以上、武田軍は4000人以上であった事は確実で死者と同じ数の負傷者が出たと考えれば両軍勢ともに全軍の3分の1以上の軍勢が被害を受けている事になり、戦国時代の戦の中でも飛びぬけて悲惨な戦いであった事は明白です。

しかもこの決戦の結果は「引き分け」としか言いようのないものであり、その後もこの両者の戦いは続いていきます。ちなみに天下分け目の関ヶ原の戦いでの東軍の死傷者は全体の4%程度です。この時代においてもこの第四回川中島の戦いがいかに特殊な戦いであったのかをご理解ください。戦国最強の武将と言われた「越後の虎」と「甲斐の龍」とが正面からぶつかったのはこの一度だけです。今回のブログではそれに至るまでの両者の動きと、この戦の背景を私なりに記述したいと考えています。宜しくお願い致します。

それまでの両者の戦い

この戦までに武田軍と上杉軍は3度戦っておりました。第一次の合戦は天文22年(1553年)でこれまで破竹の勢いで北に向かって進む武田軍を越後の長尾景虎は北信濃川中島で完全に止めて見せました。この戦いでは武田軍が戦を避けたのが現実で小競り合い程度の戦で両者とも引き上げました。

第二次川中島の戦いは天文24年(1555年)に行われ、犀川の戦いとも呼ばれたこの戦は川を挟んで両軍が200日以上事実上にらみ合いを続けただけで終わりました。この時には長尾景虎関東管領として上杉政虎と改名しており、武田晴信は前年に三国同盟を結んでおり、双方が全軍をあげての戦になった訳ですが両者ともに相手が強敵である事は理解しており川を挟んで動けなかったのが現実です。先に動いたほうが明らかに不利であるという思いは両者ともに解っており、軍勢を引けば引いただけ攻められる事も解っていました。結局はこの戦は今川義元が仲裁に入り両軍勢ともに引き上げて終わりました。

第三次川中島の戦いは弘治3年(1557年)に行われ、上野原の戦いとも呼びます。これは北信濃で謀略活動を行う武田晴信上杉政虎が怒り、武田軍との決戦を覚悟で上杉軍は北信濃に攻め込みました。しかし武田晴信上杉政虎との決戦を避け、謀略で落とした城を巧みに防衛しつつ川中島で小競り合いをしたのみであり、9月になると上杉軍は武田との決戦をあきらめて越後に帰り、10月には武田軍も甲斐に引き上げました。

これが第四次川中島の戦いまでの両軍の衝突です。お互いに相手の実力を認め合っており決して無理な戦いは行っておりません。この3度の戦はいずれも軍勢同士の戦いというよりもお互いの作戦のぶつかり合いであり、特に武田晴信は上杉軍と正面から戦う事を避けてきました。上杉軍も決して無理な深追いはせずに無理があると判断した後はすぐに軍勢を引き上げています。強力な軍隊と冷静な判断力を併せ持つこの両軍は3度戦っても決して正面からぶつかる事はありませんでした。

第四次川中島の背景

しかしこの両者は決してそれぞれの方針を転換した訳では無く、双方ともに敵対国である事に変わりは無く戦の準備は着々と進めていました。

まずは武田晴信側ですが川中島への侵攻は越後軍より距離があり、どうしても両軍が同時に出陣すれば武田軍は到着が遅れてしまいます。それを解消する為に川中島までの最短距離を進める「棒道」と呼ばれる一本道を作り、川中島に武田軍の前進拠点である海津城を建設して上杉軍に備えました。また自国に山が多いのを利用して敵が動いた時に山上からのろしを上げて合図できる様に戦に向けての準備を整えていきました。

上杉政虎が考えたのは自身の権威の向上により周辺諸国を味方に付ける事でした。関東平野に攻め込み北条氏康を小田原に籠城させた上杉政虎武家発祥の地である鎌倉を北条氏から奪い取り敵地で悠々と関東管領の式典を行うと6000もの軍勢を引き連れて京に上洛し、天皇や将軍足利義輝と謁見して足利義輝の輝の字を貰って改名し関東管領上杉輝虎を名乗り、朝廷からも将軍からも自分が関東諸国を抑える大義名分を手に入れました。

この現実は越後に敵対していた武田晴信から見れば許しがたい事態であり、上杉輝虎とこれ以上戦う事は朝廷や幕府に反抗するのと同じ事になってしまいます。これを打開するには上杉輝虎と戦って一気に上杉軍を滅ぼすしか方法は無くこれまでの様に正面からの戦いを避ける事は不可能な状況に一気に追い込まれてしまいました。

自分が北信濃に侵略する正当性は何も無くなってしまった訳であり、上杉軍の侵攻には朝廷のお墨付きが出た訳です。

逆に考えれば上杉輝虎はこれ以上武田晴信を逃がさない為に、上洛し将軍の一字を貰って改名し、国主よりはるかに上になる関東管領として武田晴信に決戦を迫った形になります。

武田晴信はこの現実を悟り、同盟相手で同じく上杉勢と戦っている北条氏政と連携しながら決戦の時期を探る様になりました。こうしていよいよ第四次川中島の戦いが迫ってきました。

あとがき

この両者とも戦国武将として一流である事がお解りいただけたでしょうか?  決して無駄な動きも戦いも行わず、お互いに相手の弱点を探りながら出来る事を確実にやって相手を追い込んでいく。戦を急いでもいなければ、無理も絶対に行わない。

確実にこの両雄は戦国時代の傑出した武将です。但し、その考え方は全く違っており、謀略を重ねながら領土を拡大していく武田晴信とあくまで正攻法を貫く上杉輝虎は両者ともに天才ではありますが、全くタイプが違います。この両者が国境を接していた事は悲劇としか言いようが無く、だからこそ12年間も争う事態を招いてしまったのです。

しかしこの両者に敵対心だけしか無く何の共感事項も無かったと考えるのは早計でお互いの事を尊敬しており、敵同士ではありながらかなりお互いを信用している関係でありました。

武田信玄の遺言は自分の息子に対して「困った時には上杉謙信を頼れ」であり、武田信玄の死を知った上杉謙信は食事中に泣き崩れて「信玄こそ英雄なり」と言い残しています。この二人は非常に素晴らしいライバル関係であったと私は考えています。皆様はどのようにお考えでしょうか? 

さて次回は今回の続きで「川中島決戦(二)出陣」を予定しております。宜しくお願い致します。

須佐之男の戦国ブログ

勘風発迷

前書き

武田晴信織田信長使者から今川義元の軍勢が京に向かう事をどう思うかと聞かれて答えたというこの言葉はどんな歴史書にも残っておらずこの言葉自体が殆ど伝説の世界です。しかし織田信長から同盟を打診された武田晴信の心はこの言葉に現れている事は間違いが無い事実だと私は思います。

「勘風」とは思わぬところから吹いてきた風の事であり「発迷」とはその風が発せられて自分は迷っているという意味になります。

「思わぬところから吹いてきた風」とは間違い無く織田信長武田晴信に同盟を求めてきた事でしょう。それを受けて自分は迷っているというのは武田晴信の本心だと思います。

今川義元北条氏康との三国同盟今川義元が京に上る事を武田、北条が了解した事と同意義であり絶対に武田晴信の本心では無かった事は間違いがありません。但し、現在の自分は越後に上杉政虎という大敵を抱えていて、この時点では武田軍が京に上る事など不可能でした。しかし尾張織田信長から見れば今川軍が西に向かって動いた時に最初に潰されるのは自分であり、自分の命を守り今川義元を打ち取る為には東側で今川領と隣接し今川義元の行動をどの武将よりも良く解っており、なおかつ今川義元が京に上る事に不満を持っていると思われる武田晴信に同盟を打診するしか無く、三国同盟が締結された事を解っていながら武田との同盟を打診してきたのは真実です。

その後、武田晴信の娘を信長の息子に嫁がせる約束をして尾張と甲斐の軍事同盟が締結したのも事実であり、西に向かって進む今川義元の軍勢の中に三国同盟の名の元に武田晴信の兵力が加わっていた事も確実であり、武田晴信はこの二つの同盟を同時に機能させる事により自分の要望を実現させたと見る事が一番現実的だと私は思います。つまり武田晴信今川義元を攻めれば明らかに同盟違反になりますが織田信長今川義元を打ち取らせたところで何の同盟違反にもならない訳であり、今回のブログはそれを前提にして桶狭間の戦いを記述してみたいと思います。宜しくお願い致します。

http://network2010.org/contents/files/archive/1158%20edo_okehazama02.jpg

桶狭間の戦い前日

後方の憂いが三国同盟により一応無くなり、国内での戦も無くなった事を確認した今川義元はいよいよ本格的に西に向かっての侵攻の準備を着々と整えていきます。この西に向かっての軍勢が尾張を落とすためだけだったのか京にまで上るつもりだったのか義元が途中で織田信長に打ち取られてしまった為に真相は解りませんが、尾張を落とすためだけであるならこの軍勢の規模は大きすぎであり上洛も義元が考えていた事は確かだと思います。

この今川軍の軍勢は、駿河三河遠江の軍勢を合わせて構築しており、少ない側の歴史資料を見ても二万人を超えており、補給部隊やその付属部隊を加えると確実に四万人以上であった思われます。その中には三河軍1500人を率いていた松平元康(後の徳川家康)も尖峰として参加していました。

その大軍勢はいよいよ永禄3年(1560年)信長の住む尾張に向かって行軍を開始し、まずは織田方に奪われた大高城をまずは奪還する動きを見せました。尾張にとっては大変な危機であり、すぐに有力武将は信長の住む清州城に集結して軍議を始めました。ところが肝心の信長はこの軍議には殆ど参加していません。尾張国内が緊迫する中で大将である信長だけは平然と日常の暮らしをしていた訳であり織田軍の重臣たちは強い絶望感を持っていました。その次の日の夜明け前に信長の諜報員から今川義元の軍勢が尾張国内の丸根、鷲津の両砦に攻めかかったとの一報を受けてそれまで寝ていた信長は飛び起きます。立ったまま湯漬けを食べ、敦盛の舞を踊ると甲冑を身に着け単身で熱田神宮に向かって馬を走らせました。この時に信長に追いついて一緒に熱田神宮に到着出来たのはわずか6人だったと言われています。

大軍を小軍で迎え撃つには城にこもって戦う籠城戦が常識でしたが信長は「籠城戦で勝った武将はいない」との理由で野に出て戦う事を決意したのです。熱田神宮には信長に遅れていた武将が次々と駆け付け信長は熱田神宮で織田軍を整えました。神への祈りをささげて使者を待っていた信長に今川義元が田楽狭間に向かっておりそこで休憩する予定であるとの一報が入ります。それを聞いた信長は全軍を田楽狭間に向かわせました。桶狭間の戦いの直前の状況がこれでした。

桶狭間の戦い

田楽狭間の中の桶狭間に到着した織田軍は丘の上に今川義元の本陣と思われる軍勢を発見します。それは思った通りの大軍勢でした。勿論、丘の上にいる今川軍からは信長の軍勢は丸見えだった訳であり、しばらくは両者の膠着状態が続きました。この膠着を破ったのが突然に降りだした雷雨です。この雷雨を利用して織田軍は丘の上の今川軍に近づき、雨が降り止むとすぐに今川軍に襲い掛かり織田家の毛利良勝は今川義元の首を打ち取りました。戦国時代最大の逆転劇である桶狭間の戦いはこのわずか2時間ほどで終結し、この功績によって織田信長戦国大名として初めて一人前だと認められる事になった訳です。これが桶狭間の戦いです。

桶狭間の戦いの謎

この戦にはいくつも謎があります。まず信長軍が雷雨を利用して義元本陣へ近づいていた事が今川軍には全く気付かれていない点です。いくら雷雨で見えにくい状況であっても敵の動きが一切見えなくなる筈は無く信長軍が近づいている事は絶対に確認できた筈です。そうであるならばそれに備えた動きをするのが当然であり、本陣は守りを固めて敵から遠ざける事が当然であるのに全く今川軍にはそんな動きはありませんでした。

次に義元が打ち取られた場面の状況です。これもどの歴史書にも全く記述がありません。常識的に考えれば雨が降りだした時点で義元は近くの民家に入ったと考えるのが当然であり義元は民家の中かその近くで打ち取られた事になります。逆に織田信長から見ればこの戦は完全に時間との戦いです。圧倒的に数に勝る今川軍を相手に長時間戦う事は絶対に無理で義元がどの民家にいるのかを見分けていなければ絶対に攻撃は出来ません。短時間で義元の首を取る事、これが出来なければ織田軍は全滅してしまいます。この謎を解くカギは何でしょうか?

ここからは私の推測になります。真実の史実とは違うかもしれません。雷雨の降る中を織田信長に今川方の兵士が近づき義元のいる位置や今川軍の状況を教えたとしたらどうなるでしょうか?  信長軍はその情報に従って行動し、極めて短時間で今川義元を打ち取る事が出来た訳です。勿論見知らぬ敵の兵士が近づいて来たら確実に殺されます。だからこそ、この兵士と信長との間に日常的に関係があり、しかも常に義元の動向を織田の諜報員に教えていたのがこの兵士であるなら納得がいく訳です。日頃から今川義元の側近でいられたという事はこの兵士は義元の信頼が厚くなくては絶対に無理で織田軍のスパイでは絶対に務まりません。でも三国同盟を結んだ武田勢の兵士であるなら義元としても武田の動きを探る為にもそばに置きたがる筈であり、武田と織田との軍事同盟はこの作戦の為に結ばれたと考えればすべてに納得がいく訳です。私がこの桶狭間の戦い武田晴信が関わっていたと考える理由はここにあり、駿河を出発してからの義元の動向はすべて細かく信長の元へと伝わっていた訳です。だからこそ信長は通常の生活をしながらも一人でいつも義元を撃つ作戦を立てられた訳であり戦のセオリーを完全に無視した行動も平気で取れた訳です。この桶狭間の戦いは偶然の積み重ねで織田信長が勝ったと考えるにはあまりにも無理が多いのが現実でどこかに裏があったと思うほうが明らかに自然だと私は思います。決して今川義元は愚劣な武将などでは無く、それまで恐ろしい勢いで領土を拡大して「東海一の弓取り」と呼ばれていた極めて優れた武将であり、この今川義元の最後はあまりにも不可解です。

あとがき

この桶狭間の戦いの後に当然ですが織田家ではこの戦の論功行賞が行われました。そしてこの桶狭間の戦いで手柄第一になったのは今川義元の首を取った毛利良勝では無く、簗田政綱という織田信長の諜報員です。確かに信長は他の戦でも諜報活動を得意として諜報員を大切にして敵の情報を集める事を重要視していました。

しかし、諜報員が一番手柄だと認めたのは生涯の戦を通じてこの桶狭間の戦いだけであり、当時の常識から考えても直接今川義元を打ち取った毛利良勝よりも諜報員である簗田政綱を上に持ってくるのは考えられない話です。諜報員はあくまで隠密であり、普通の兵士と同等では決してありません。

これが情報を教えてくれた武田晴信に対して織田信長の礼儀の尽くし方だったのでは無いかと私は感じています。桶狭間今川義元が打ち取られた事は織田信長にとって未来の希望が開けただけでは無く武田晴信についても同様の思いだったと思います。

勿論、この時点では武田晴信は北に向かっての侵攻をあきらめた訳では無く越後の上杉氏と戦っておりました。しかし、この桶狭間の戦いの翌年、永禄4年(1561年)に初めて武田晴信は越後軍と正面からぶつかる戦国時代のもっとも悲惨な戦いであるとされる川中島第四回の戦いを経験して北に侵攻する事の無理を悟ります。次回から数回に分けてこの戦国時代の龍虎が正面からぶつかった第四回川中島の戦いを記述する予定でおります。今から考えても間違い無くこの時代に最強の軍勢を率いていたのは越後の上杉軍か甲斐の武田軍であった訳で、それはこの戦いで証明されたと私は考えています。この両軍勢は戦の駆け引きから戦闘能力、大将のリーダーシップから軍勢の士気に至るまで他のどの軍勢と比べてもずば抜けています。だからこそ、これまでの三度の戦いは相手の力が解っている為に双方とも正面からの戦いは避けてきた訳であり、この第四回の戦いで両者は激突します。これは戦の始まる前からその終了と結果についてどうしても複数回で記述する必要があると私は考えています。宜しくお願い致します。 

 

須佐之男の戦国ブログ

武田信玄(二)三国同盟

http://image.photohito.k-img.com/uploads/photo30/user29934/32d1e9280721e8c1a84c702ebe0af8b3/32d1e9280721e8c1a84c702ebe0af8b3_l.jpg

前書き

長尾景虎(後の上杉謙信)の軍勢と二度戦った武田晴信は武田軍全勢力をぶつけない限り、決してまともに戦えない事を悟ります。景虎の率いる越後軍の強さは猛烈であり、景虎の周辺国への信頼は絶大であり、その力はますます大きくなっていく事は確実でした。

その当時の関東諸国の勢力図は駿河今川義元が最大であり、小田原の北条氏康と何度も戦っており、武田家は今川家とも北条家とも縁戚関係を結んでいましたがそれで万全とはとても言えず、この両者が戦う度に両方に援軍を送らなければならないという非常に厳しい立場にあり、双方向に敵を抱えていては越後軍に対して不利になるだけでした。

そんな折に大変な事態が起こりました。北条氏に鎌倉を追われた関東管領上杉憲政が越後の長尾景虎を頼り、長尾景虎を自分の養子にして上杉政虎と名乗らせ関東管領職を上杉政虎に継がせたという事件です。この事で上杉政虎の率いる越後軍は関東諸国すべての支配権を手に入れたのであり、甲斐一国の国主である武田晴信とは大きな差がついてしまいました。越後軍と単独で戦う無理を感じた晴信はどうしても同盟が必要になった訳です。

ここで今川、北条両氏についてその勢力と思惑を簡単に触れておきます。

今川義元

石高でも家柄でも、また上洛して天下を治める野望についても東海、関東での今川義元の力は図抜けていました。もともと今川家は室町幕府の将軍である足利幕府の直系の子孫であり、その為に今川義元はすべてにおいて京風を好んだとされています。後に桶狭間で信長にあっけなく打ち取られた今川義元を現代から見て弱い武将であったと考えるのは大間違いであり、その勢力は駿河から遠江国、岡崎にまで及び尾張の織田家に隣接する大大名でした。岡崎の人質として松平元康(後の徳川家康)を抱える今川義元はその最後の生涯まで常に天下取りレースのトップの座にいました。但し、今川義元としては京に向かって西に侵攻するのには背後の武田、北条氏とはどうしても同盟が必要であり背後の敵を無視した状態では上洛は無理だったのが現実です。

北条氏康

今川義元とは対照的に家柄も何も無い立場から下剋上でのし上がって関東の大大名に成ったのが氏康の祖父、伊勢新九郎盛時であり、鎌倉を抑え後北条を名乗り北条早雲と名乗った伊勢新九郎盛時の二代目が北条氏康でした。成り上がりものであるから能力が落ちると考えるのは早計であり、小田原に巨大な平城を築城し、度重なる上杉謙信武田信玄の攻撃にも籠城して耐え抜きその生涯は小田原城を守り抜いて見せました。自分の息子がみそ汁のお代わりをするのを見て

「自分の食べられる量も解らない者が人を動かせない。息子の代で北条家は滅ぶ」

と予言したのは有名で現実に豊臣秀吉によって息子の代で小田原城は攻略されて北条家は滅びました。名前をわざわざ鎌倉時代の執権であった北条氏に変えていることからも北条家の狙いは明白であり関東地方の完全制覇です。その為に今川義元とは何度も関東の覇権をめぐって戦を繰り返していた訳でありましたが、関東管領上杉政虎が就いたことは脅威であり、武田晴信と同様に今川義元と争っている場合では無くむしろ武田晴信と同盟を結ぶ事によって越後軍に対して武田、北条が協力して戦線を張る事によって何とか越後軍の侵攻を止めたいのが本音であり、今川、武田と同盟を結ぶ事によって越後に全勢力を向けたい思いでした。

三国同盟成立

この様に三者三用ではありましたが今川、北条、武田ともに同盟を結ぶメリットは充分にあった訳です。そこで今川と北条の戦の仲介という形で武田晴信が間に入り、この三者は天文23年(1554年)に正式に軍事同盟を結びました。

ただ、この同盟にはデメリットも多く今川義元桶狭間織田信長に打ち取られた永禄3年(1560年)に武田晴信により一方的に破棄されます。実に6年も持たなかったのが現実でした。今川から見たデメリットは自分が上洛する為に実際に動いた時に北条、武田氏をどれほど信用できるかという点にあり、同盟を破棄して自分のいない駿河に攻め込んでくる可能性は充分にあります。自分が天下を治めるのを北条、武田が黙って見ている筈が無いと考えるのは当然でした。武田、北条氏から見たデメリットもまさにそこにあり、京に上る道を同盟と言う名の元に今川氏に塞がれてしまう事にあります。関東にしか興味が無い北条氏とは違い甲斐の武田晴信が何よりも欲しがっているのは海であり、山梨県には海がありません。海を目指して武田晴信はわざわざ強敵のいる越後に向かって侵攻している訳であり、現実に今川義元織田信長に打ち取られるとすぐに武田晴信は越後への侵略をやめて、それまで苦労して取った北信濃上杉政虎に返して駿河に攻め込みました。この身替りの速さは武田軍の特徴であり、武田晴信は最初からこの同盟を全く信用していません。超現実的なのは信玄の特徴であり、この三国同盟の成立と同時期になんと尾張織田信長とも同盟を結んでいます。今川義元が最初に攻める尾張の織田家と今川家と同時に同盟を結ぶという離れ業を平気で実行している訳であり、これが武田晴信の外交手腕でした。

この織田家との同盟が桶狭間今川義元織田信長が破るという戦国時代最大の逆転劇である桶狭間の戦いに直結していると考えるのは当然だと思います。次回は再び尾張織田信長に戻り「勘風発迷」を記述したいと思います。宜しくお願い致します。

あとがき

次回のブログの主題である「勘風発迷」とは武田晴信織田信長使者に伝えたとされる言葉です。これは今川義元の上洛をどう思うかとの信長の問いに答えた言葉だとされています。確かに信長は戦国大名の中でも図抜けて情報戦を重視した武将でした。

しかし今川義元の部隊は補給隊も入れると四万人近く、それを迎え撃つ織田信長の軍勢はすべて集めても四千人もいなかったと考えられており、桶狭間に実際に向かった兵力は千人未満だったと思われます。今川の兵力を分散させてもどう考えても今川義元を打ち取る事は不可能であったと考えるのが当然だと思います。映画などで皆様は桶狭間が窪地であり、そこに今川義元が休息しているところを信長軍が襲い掛かったイメージをお持ちでしょうが現実には窪地にいたのは織田軍であり、今川軍は丘の上に陣を取っていました。これは戦の常道であり敵地で休息するのにわざわざ不利な窪地を選ぶ武将はおりません。今川義元織田信長を甘く見ていたとの説もこの両者は直接ではありませんが何度も戦っており義元がそこまで信長を甘く見ていたとはどうしても考えられません。どうやって今川軍と戦うかという軍議も信長は一切行わなかった事は確実な話の様で信長は猜疑心が強く自国の兵の中に今川の諜報員が潜んでいる危険性があったからだと言われています。そんな人間が自分の諜報員の情報には完全に従って動いた事に不思議さを感じられませんでしょうか?

しかし現実の桶狭間の戦いは二時間ほどで終結し、今川義元は打ち取られました。これは歴史のミステリーとしか言いようが無い大事件で裏が無いと考えるほうが不自然でしょう。

ここからは私の推測ですが信長が信用して動いていた諜報員が武田晴信の部下だったらどうでしょうか? 直接的では無く間接的に接していたとしてもこれなら信長は100%信用して動ける訳です。何故なら今川義元はこの時点で織田、武田両氏にとって共通の敵であり相手を騙す理由は何もなくなります。よって次回のブログはこの私の勝手な推測によって進めさせてもらいます。この方法でしか私にはこの逆転劇が説明できないのが現実です。武田晴信織田信長との同盟関係はこの時が一番強く、その後駿河に侵攻した武田晴信徳川家康とも織田信長とも結んでいた同盟をいとも簡単に破って西に向かって行軍しています。これはまた別の機会のブログになりますが京に向かって行軍する武田軍はついに三方ヶ原で織田、徳川の連合軍とぶつかりこれ簡単に撃破して信長の叔母を武田晴信の部下の側室にまでして信長を愚弄し進軍を続けました。どう考えても武田晴信の結んだ同盟とはその場しのぎのものでしか無く、用が済めば簡単に破棄しています。この物凄くドライな政治力が武田信玄の天性の才能であり過去に何の未練も残さずにひたすら自国の事だけを考えて前だけを向いて突き進んだ生涯でした。

そういう訳で次回のブログは真実とは異なるかもしれません。でもこの桶狭間の戦いは武田が協力していたとしないと説明が出来ない事が多すぎます。ご容赦ください。

須佐之男の戦国ブログ

上杉謙信(一)

自分を神と信じた男

http://blog-imgs-23.fc2.com/t/a/k/takasannoibaraki/20080103181219.jpg

前書き

前回のブログの最後に触れた様にこの上杉謙信という戦国大名は他の誰と比べても極めて特殊な存在であり、はっきり言えば変わり者です。幼少期に僧侶を目指して寺で修行していた経験がその原点になっている事は確かでしょうが、この武将の最大の特徴は自分の事を最後まで人間だと思っていなかったとみられる部分が多々あり、そういう意味においても当時の他のどの戦国武将と比べても異質な存在です。

七福神の中に毘沙門天という神様がいる事を皆様はご存知でしょうか?

毘沙門天は仏法を守る軍神であり、上杉謙信は自分がこの毘沙門天の化身であると信じて疑いませんでした。従って神の化身である自分に鉄砲も弓も槍も決して当たらないと信じており、この信仰心は魔力になりました。現実にこの武将が戦で敵の攻撃を受けて負傷した事は一度も無く、無傷であった事は全く常識外れの出来事です。

例えばこんな話があります。永禄四年(1561年)三月謙信は大軍を率いて越後から関東平野に出て相模国(現在の神奈川県)に侵攻し北条氏の本拠地小田原城を包囲しました。この時に謙信は敵兵が構える小田原城の城門のすぐ近くまで馬で駆けつけ城門の前で弁当を食べだしました。北条氏から見れば大変なチャンスであり謙信めがけて弓、鉄砲が激しく撃ちかかりました。その中で謙信は平然と弁当を平らげてお茶を三杯もお代わりしております。その中で謙信は全くの無傷でありそのまま悠々と引き上げました。

今回のブログはこうした上杉謙信戦国大名に成るまでの経緯とその戦略、性格を分析していきたいと思います。

その誕生から戦国大名に成るまで

享禄三年(1530年)正月に上杉謙信は越後守護代長尾為影の末子として越後に誕生しました。為影は苦心して越後を統一した武将でしたが、彼の病没後に越後国内はたちまち乱れて当時七歳だった長尾景虎(謙信の幼名)は甲冑を身に着けて父の葬儀に参列したと言われています。

その後、為影の跡目を嫡男晴影が相続、景虎は林泉寺の僧侶天室光育に預けられて僧侶への道を進んだとされています。ところが彼が一三、四歳の頃、兄晴影によって俗界へ引き戻されて栃尾城を預けられ武士としての道を進む事になります。ここで景虎は兄である晴影を助けて越後の平定に力を尽くす事になりました。

しかしです。この景虎のあまりの戦の強さに家内の人望は大きく兄である晴影を上回るようになりやがてこの兄弟の争いが深刻化し、越後国内は二つに割れました。天文一六年(1547年)に晴影は大軍を率いて栃尾城に攻めかかりますが逆襲にあって景虎に敗退して、越後守護、上杉定実の仲介にあって兄晴影の引退という形で長尾家の家督は景虎が継ぐ事になり、翌年景虎は本城である春日山へと移りました。この時の景虎の年齢はわずか19歳でした。これが戦国武将長尾景虎(後の上杉謙信)の誕生です。

その戦略と戦法

春日山城に移った長尾景虎は重臣を呼び集めて自分の今後の方針を発表します。その内容は当時の戦国大名の常識から遠くかけ離れたものでした。

自分が戦をするのは

1、自分の領国内に敵が攻め入った時

2、近隣の武将から助けを求められた時

3、将軍や朝廷からあのものを撃てと命じられた時

この三つに限るという事です。つまり絶対に侵略戦争はしないというのがこの長尾景虎の信念でありました。この時に彼はもう一つ重大な約束をしています。自分は仏身の身でありながら戦をする事になった為にその戒めとして生涯女性を近づけず、家族も子供も持たないと宣言しており、この姿勢は死ぬまで変わりませんでした。

この長尾景虎の最大の特徴は欲が全く無い事であり、彼が理想とした世の中は荒れ果てた戦後時代を室町時代の平穏な時代に戻す事でした。時代は確実に新しい世の中に向かって動いている中で彼はその生涯を通じてその強力な軍勢を時代を逆行させる事に生涯取り組みました。まさに戦国時代のドン・キホーテとも言える存在でありこの武将はこの点で他のどの戦国大名と比較しても異質です。自分自身が京に上り天下に号令することなどは全く考えなかった戦国武将は彼だけだと思います。

現実に彼自身、その生涯に二度に渡って上洛を果たしております。しかしこの男は京での用事が済めば祖国へ帰るのが当然であり自分が京で覇権を振るう事を全く考えていませんでした。

さらに彼の軍勢の戦での最大の特徴は前回のブログでも少し触れた「車掛り」と呼ばれる渦巻き状になった異常な陣形です。この時代の戦の陣形は「鶴翼」と呼ばれる鶴が羽を広げた様な形が一般的であり行進中の軍勢は「雁行」と呼ばれる陣形が一般的でした。いずれも本陣を守り、攻撃にも守備にも適した陣形でありましたが長尾景虎はこれらの従来の形式を全て無視しました。

車掛りの陣の最大のメリットはその攻撃能力です。相手の軍勢の一点に回転しながらいつでも新しい軍勢を向けられる事になり、疲労が積み重なっていく敵方に対して元気で新しい軍勢を回転しながらぶつけていく事で一点突破を狙う完全な攻撃型の布陣でデメリットは大将を守る本陣の陣形が組めない事ですが、前書きでもお伝えしたように上杉謙信にとって自身の身は不死身であると信じ込んでおり本陣の厳重な守りは必要が無いというのが信念でありましたからこういう陣形が組めた訳です。

とにかくあらゆる面においてこの「越後の虎」と呼ばれた上杉謙信が特殊であり、前回触れた武田信玄とはその思考回路が全く違う事がご理解いただけたでしょうか?

この二人が国境を接する隣国であった事は今から考えれば非常に皮肉な事でした。

あとがき

前回は武田信玄、今回は上杉謙信を記述しましたがこの二人はともに天才的な一面を持ちながらも全く違う考え方を持っていた事が理解していただけたと思います。

と、言うよりこの上杉謙信のほうが明らかに異常であり戦国大名の一般的な思考から大きく逸脱しています。欲を持たず、策略を用いず、戦をなるべく避けるという彼の思考は戦国大名としては不適格であったのかもしれません。しかし現実にはこの武田、上杉の軍勢の強さは戦国武将の一,二を決める程強力であったのは間違いの無い事実でありこの両者は激しく戦いました。

上杉謙信は生涯独身を貫き、正義の為だけに戦を行い、一切の損得勘定では動かずに、養子を貰って家督を継がせてその養子には信玄の娘と夫婦にさせました。彼は戦国大名には向いていなかったかも知れませんが、この時代にあって人間としては確実に最上であったと私は思いますが皆様はいかがでしょうか?

さて次回ですが再び武田信玄に戻って「武田信玄(二)三国同盟」を記述したいと考えています。三国とは甲斐、駿河、相模であり武田、今川、北条の同盟です。この同盟には三者それぞれの思惑があり、これが後に織田信長今川義元が戦う桶狭間の戦いにも深く関わってまいります。宜しくお願い致します。

 

須佐之男の戦国ブログ

武田信玄(一)

http://cdn.mainichi.jp/vol1/2015/11/26/20151126biz00m010020000p/91.jpg

前書き

優秀な戦国時代の国主の条件とは何でしょうか?   勿論、領土を拡大して勢力を広げ天下に号令するのが理想像ですが、それは戦国大名にとっての理想像でありこの時代の一般庶民(多くは農民)にとっては関係の無い話です。室町時代の足利幕府の平穏な時代を何の秩序も無い下剋上が当たり前の戦国時代に持っていったのは、まぎれもなくこの一般庶民の怒りの爆発であり、それが一向一揆という形で日本中に現れた結果の室町幕府の権威の失墜であり戦国時代の到来でした。

つまり室町幕府の方針に庶民は最初から不満を持っていた訳であり、この不満の解消を考えない限り絶対に世の中は収まらない訳です。力で無理やり封じ込んでも力が衰えればまた爆発します。何故室町幕府の体制が崩れたのか、その根元を解決しない限り平穏な世の中は絶対に訪れません。武田信玄の登場はこの根元を徹底的に考えた戦国武将の登場であり「戦」よりも彼が重点を置いたのは明らかに「国造り」であり謀反の心配の無い世の中を自国内から創る事に最大の努力を致しました。

武田信玄はその一生で死ぬまで自分の住む城を持たず塀も堀も無い館に住み続けました。彼の考えは自国民を信じる事であり人々の信頼が領土を拡大し勢力を広げると信じて疑いませんでした。

「人は城、人は石垣、人は堀」という彼の言葉は有名で何よりも大切にしたのは人でありそれは特定の武将だけでは無く、農家から行商人まで信玄の目線はいつもそこにありました。裏切りや謀反を起こすのは人の不満が元であり不満が無ければ争いは起こらないという姿勢は終始変わりませんでした。

甲斐という領国

現在の山梨県である甲斐が彼の領国です。隣接する大名は関東相模を抑え自国内に鎌倉という武家政治の発祥の地を持つ北条氏政駿河から遠江まで抑えて海道一の弓取りと言われた今川義元であり、経済力でも領土の広さでも取れる米の石高でも全く話にならないほど違います。甲斐は山だらけの土地でありその為に洪水も多く決して恵まれた領土ではありませんでした。

またこの地の豪族は独立心が強く簡単に国主には従いません。有利と見れば平気で国主を裏切り他国の大名に仕えます。これを力で抑え込もうとしていたのが先代の武田信虎であり、そうした父に反発していたのが後に信玄と法名を名乗った武田晴信でありました。この親子の対立は深刻化し信虎は自分の跡取りに次男である信繁を擁立しようとします。危機を悟った晴信は実の父親駿河に追放し、国主の座を手に入れました。晴信はこの弟の信繁と自分とで合議制による国造りを始めた訳であり、領国内の豪族を呼び集めてそれぞれの意見を聞いた上での作戦いつも立てました。豪族の管理する領土まで自分が支配しようとは考えずに、その裁量は豪族に任せて税金だけは納めてくれという形であり甲斐という小さ国の中に合衆国を築いた訳であり、それによって自国の領土をうまく治める事を考えました。ここでも晴信は人を信頼する事によって領国の安定を目指した訳でありこれが晴信の人使いでした。

洪水を無くし金山を探す

国主となった晴信が最初に考えた事が自国から洪水を無くし石高を上げて領民の暮らしを安定させる事です。信玄堤と言われる堤防は現在でも残っておりとにかく洪水を防ぐ為にあらゆる手を打ちました。地盤が弱い部分には竹を植えて地盤を強化する事や川の流れを変える事によって洪水が田畑を通らない様にする事、洪水が無くなれば百姓の不満も収まる事を晴信は解っていました。

それと並行して始めたのが優秀な人材の発掘であり、身分の如何にこだわらず優秀な人材は遠慮なく昇進させて見せました。また全国から金堀職人を集めて自国内に金山を探し出し発掘する事によって経済力を蓄えました。晴信(信玄)が本格的に戦を始めるのはそれからであり自国内の国造りを一から始める事にまずは集中した訳であり極めて優れた政治手腕です。非常に手間のかかるやり方ですがこの努力こそ、この甲斐一国は信玄が国主の間は一つにまとまり謀反も裏切りも殆ど無い状況になりました。

風林火山孫子の兵法

武田信玄の戦法を語る上で絶対に外せないのがこの風林火山の旗印です。

「その早き事風の如く、静かなる事林の如く、侵略する事火の如く、動かざる事山の如し」

この変幻自在の動きを可能にしたのが自由な領土経営を任された個性豊かな豪族達でありこの動きを晴信は一つにまとめて見せました。孫子の兵法を徹底的に分析した晴信の戦にはいくつか特徴があります。彼は人を重んじる性格ではありましたが、この場合の「人」とは自分の領国内の人間だけであり他国の人間とは最初からはっきり分けています。晴信の戦法は絶対に自分の領国内では戦は行わないという事で徹底しており他国を戦場として戦います。戦場が焼け野原になっても自分の領土では無いし勝てば新たな領土が手に入ります。今でいう侵略戦争しかしないというのが戦の前提であり、現実に晴信の軍勢は若い頃に村上義清に二度負けて以降は殆ど負け知らずであり諜報、謀略を行いつつ戦を仕掛けるこの戦法で北に向かって領土を次々と拡大していってついには北信濃の奥にまで攻め込みます。

そこで武田軍は今まで見た事も無い軍勢と初めてぶつかる事になりました。

越後の虎との出会い

村上義清は結局は武田晴信に追われて越後に逃げ込み越後守護代で実質的には越後国主であった長尾景虎(後の上杉謙信)に泣きつきます。自分の領土を取り戻すのに力を貸してほしいという事です。長尾景虎は早速軍勢を率いて北信濃に出兵しました。

武田軍が北信濃善光寺平の川中島近くで遭遇した軍勢はまさにこの長尾景虎が率いる越後軍でした。

渦巻き状になった「車掛り」と後に呼ばれる様になる異常な陣形、近距離に接近しているのに物音ひとつ聞こえてこない静かな軍勢を見て晴信は早く攻めかかる様に命令を待っている家臣に対して動かない様に支持を出します。

「良き軍勢とは優しげで物静かで落ち着いて見えるものである、あの軍勢は強い」

晴信はこれまで戦をしてきた軍勢と越後軍の質の違いを見抜いていました。動いたらこちらが危ないと判断した訳であり、正面からの戦いを避けて「引け」の命令を出しました。武田軍が引く動きを見せると越後軍も引き上げる動きを見せましたが、本格的に武田軍が引き始めるといきなり攻撃態勢に変わり晴信が引いた後の城を立て続けに落として見せました。

これが12年間続いた川中島での「戦国時代の龍虎」と呼ばれた信玄と謙信との両雄の最初の衝突です。あえて自らの手の内を見せずに引いた武田晴信に対して長尾景虎は逆に自分の正体を見せつける事で相手に恐怖感を植え付ける為に動いて城を落として見せました。その動きは神出鬼没で凄まじい速さであり、武田晴信はこの時から自分の本当のライバルが誰であるのかをはっきりと意識する様になりました。

あとがき

本文中で武田信玄の事を信玄と書いたり晴信と書いたりしてややこしかった部分はお許しください。

武田信玄というのは法名であり同じく上杉謙信法名です。つまり両雄がこの名前で戦った事は一度も無く武田のほうは武田晴信上杉謙信の場合は最初は長尾景虎であり戦う度に、上杉政虎上杉輝虎と名前を変えておりしかもこの川中島は12年間5度に及ぶ戦いであり非常にややこしい訳です。この5度の戦いすべてを記述する事はありませんが激戦となった四度目は改めてブログで取り上げる予定です。五度の戦いとは言ってもこの両雄はお互いの力を認め合っておりまともにぶつかったのは一度だけです。

何故、信玄がわざわざ強敵のいる北に向かって軍勢を進めなければならなかったのかというとこれも甲斐という領土の問題でもあり海に面していない甲斐国はどうしても海が欲しかった訳であり、太平洋側の海は駿河の今川、関東の北条に完全に抑えられており北を目指すしか無かった訳です。

さて次回のブログですが今度は越後の上杉謙信を「自分を神と信じた男」として取り上げたいと思います。「武田信玄(二)」はその後にまた必要に応じて取り上げていきたいと思います。

上杉謙信についても複数回取り上げるつもりでありこの武将は他のどの戦国大名よりも確実に変わっており普通の人間の神経からは完全に逸脱した戦国武将でありかなり特殊な存在です。

誠に勝手ですがそういう手順でブログを進めていきたいと思いますので宜しくお願い致します。