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須佐之男の戦国ブログ

マムシと言われた男

http://minamiruruka.up.n.seesaa.net/minamiruruka/image/E69689E897A4.jpg?d=a1

前書き

この時代のヒーローの特徴としてその出自がはっきりしない人間が非常に多い。出世の象徴となり天下を治めた豊臣秀吉が農民であったというのも一つの通説にすらすぎません。

真実の秀吉の出自については「全く解らない」としか言いようが無く、尾張中村の百姓であったというのは一説にしか過ぎません。しかしそうであるからと言って豊臣秀吉の価値が下がるものでは全く無く、どこから出てきたのかも解らない最下層の人間が出世を重ねて上り詰めて正一位関白となり太閤として時代を彩ったのは間違いの無い事実です。正一位とは帝である天皇陛下から見た家来の順位であり正一位天皇陛下の次である事を意味します。

この秀吉の昇進は日本のみならず世界史上の奇跡であり、ここまで這い上がった人間を世界史上私は一人も知りません。「蒼き狼」と呼ばれたチンギスハーンでも出自は小部族の長からの出発でありナポレオンも下士官ではありましたが最初から貴族階級です。アドルフヒトラーも同じく第一次大戦時にはすでに軍人でありましたし、政治に何の関係も無い最下層の人間が帝の次の位まで上り詰めたなどという歴史は豊臣秀吉ただ一人です。

この出自をさらに解りにくくしているのが何度も名前を変えている事です。木下藤吉郎が秀吉の元の名前であると考えるのは間違いであり彼は姓など持てる身分の出身ではなく藤吉郎から始まったと仮定するのが順当でしょう。彼は早くから武士を志して今川義元の家臣である松下嘉平に雇われました。松下家の家中で頭角を現した藤吉郎は姓を名乗ることを許されて「松下様の木の下に」という事で木下藤吉郎を名乗りました。その後、織田信長に仕えて城持ち大名にまで出世した秀吉は信長から改名を許されます。その折に織田家の重臣であった丹羽長秀柴田勝家の両名から一字ずつ頂き「羽柴秀吉」を名乗りました。この人の心に巧みに入り込み自分の安全を保ちつつ出世していくというのが秀吉のずば抜けた才能であり初めて城持ち大名となった際にはそれまで「今浜」と呼ばれていた地域を信長の「長」をもらって「長浜」と改めておりこれが秀吉の出世術であった訳です。

秀吉だけでは無く前回のブログでも触れた上杉謙信などは基の名は「長尾景虎」であり「越後の虎」と呼ばれ恐れられました。その後景虎のあまりの戦の上手さから関東管領上杉憲政に自分の養子になって関東管領を継いでくれと頼まれて上杉政虎と改名、その後に将軍足利義輝と対面して「輝」の字を貰って上杉輝虎、謙信は法名であり姓も名も何度も変更しています。しかしこの斉藤道三ほどは誰も名前を変えていませんし、変える理由も全く違います。道三は改名する事と謀略がセットになっておりあらゆる手を使って美濃の国主の座を手に入れました。

斉藤道三の履歴

断っておきますがこれも一つの通説にしか過ぎません。戦後に出された道三の国盗り物語は親子二代で成し遂げたものであるとの説のほうが現在は有力であり私の述べる通説のほうが明らかに少数派です。この親子二代説は一介の油売りが一代で戦国大名にのし上がる事の時間的な無理さから出された説ですが私から見ればこの説だと親子二代が重なって謀略を続ける必要があり、もっと無理が出てくる、国持大名に成って以降の道三の経済政策は明らかに商人の目線で物事を判断しており自分自身がが商人を経験していないととても無理である事や息子の裏切りによる道三の死も親子二代説では説明がつかないところから私は一代で成り上がった通説を支持しています。ではその中身を見ていきましょう。

幼名が峰丸であった道三は11歳の春に京都妙覚寺で得度を受け法蓮房と名を変えて僧侶になります。しかし間も無く還俗して松波庄五郎と名乗り油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとって油商人となり山崎屋と称して油の行商人となります。この油売りで庄五郎は非凡な才能を発揮します。油を注ぐ時に漏斗を使わずに一文銭を取り出して「油はすべてこの一文銭の穴を通して見せます、もし油が他にかかったらお代は一切頂きません」とパフォーマンスをやり油の行商として有名になっていきます。ところがある日油を買った矢野という土岐家の侍から「見事な腕だが所詮商人の業だ、この力を武芸につぎ込めば立派になれるのにもったいない事だ」と言われたのを契機に一念発起して油商人をやめて槍と鉄砲の練習を始めて武芸の達人になります。昔の僧侶時代の縁故を頼って美濃守護土岐氏守護代の長井長弘家臣となり家臣西村氏の家名をついで西村勘九郎正利と名乗ります。勘九郎はその武芸と才覚で次第に頭角を現わし、土岐守護の次男である土岐頼芸の信頼を得て家督争いで頼芸が兄政頼に敗れると政頼を革手城に急襲して越前へ追いやり土岐頼芸の信頼を不動のものにします。次には同じく土岐頼芸の信頼の厚かった長井長弘の除去を画策し長井長弘を不行跡のかどで殺害し、長井新九郎規秀を名乗ります。その5年後に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗り美濃守護代として稲葉山城の大改修を行っています。そして土岐頼満を毒殺してその兄土岐頼芸と対立し土岐頼芸尾張に追放して実質的な美濃の国主へと這い上がりました。追放された土岐頼芸織田信秀を頼り織田軍が大規模な稲葉山城攻めを行うと巧みな籠城戦で織田軍を壊滅寸前まで叩き潰して戦に勝利しています。

さて皆様、この間に彼は何度名前を変え立場を変えているでしょうか?  数える必要はありません、私だって解らないくらいに彼の業績は複雑であり退屈な文章を読み直して頂く事は望んでおりません。とにかく彼の人生は複雑怪奇であり、自分の邪魔になる相手はライバルであれ主君であれ問答無用に殺しています。この相手かまわずに噛みつく道三の鋭さが彼を「美濃の蝮」と呼ばせ周囲に脅威を与えるに足りえる存在であった事は確かでありこの時代にふさわしい戦国大名です。美濃一国を完全に手に入れた道三は駿河今川義元が岡崎にまで手を伸ばし上洛の勢いを見せると即座に尾張織田家と手を結び、娘の帰蝶を信秀の長男、信長に嫁がせて自国の領土を防衛して見せました。美濃と尾張が同盟する事で今川義元の上洛の道筋を完全に塞いでしまった訳であり見事な政治手腕をここでも発揮しました。

道三の経済政策

血も涙もないこの策略を実行しつつ道三は自国内の経済の発展には真剣な努力を重ね自国内の独占企業を排除して認可制でいつでも庶民が商売を始められるような自由経済の礎を作りました。他国から自国に商売を移した商人の税金の大幅な免除などの誘致活動も盛んに行い美濃の市は東海地方屈指の好況に見舞われて経済活動は飛躍的に高まりました。京の帝や将軍には惜しげもなく貢物を送り、自分の子供を嫁がせて中央との安定を図り、その事によって自国に都の文化を取り込み治安を安定させてますます美濃の庶民の暮らしを安定させました。

決して道三は武力だけでのし上がった訳では無く、経済面においても巧みな手腕を発揮して乱れた治安を回復し民衆の信頼を得ていた訳であり市場での税収が上がると百姓からの年貢の負担を減らしてすべての美濃国内の庶民の生活の向上に努めた訳であり、美濃国内での百姓一揆は激減して庶民は平和を取り戻しました。

信長に娘を嫁がせた本当の理由

それまで大切にしていた娘の帰蝶を織田信長に嫁がせたのは今川義元の動きだけではありません。

道三にとって直接的な敵として一番警戒していたのが隣国である尾張織田信秀でありました。その息子であり後継者である信長が「うつけ」と呼ばれる戯けものであり、父の信秀と息子の信長の関係がうまくいっていない事は隣国である美濃の道三にも当然情報は入っていました。帰蝶を嫁がせた最大の理由がこれであり、信秀の死後に織田家で跡目争いが起こった時に自分が信長側に介入し、その後信長を殺せば尾張一国が実質的に手に入る訳であり、道三はその為にわざわざそれまで敵対していた織田家と親戚になる事を試みました。

信秀が急死してそれが実現に近づくと早速動き始め娘婿と面談がしたいと申し出て信長との面会を望み現在の愛知県一宮市の正徳寺でこの面談を実現させています。勿論信長をその場で打ち取る事も計画していた訳でありやはり謀略でのし上がってきた道三入道はそのマムシの牙を今度は娘婿である信長に向けた訳であります。

ところが実際の面談で織田信長は想像を超えた動きを見せてこの道三の心境は一変いたします。信長が「うつけ」などでは無くまぎれもない「本物」であると理解したのは道三が最初であり信長の最初の理解者は間違い無く道三です。それが原因となり道三は実の息子に暗殺される運命になるのですが次回はこれを詳しく「信長と道三」で記述してみたいと思います。

あとがき

「姓を変える、名前を変える」という事が当たり前だった戦国時代でもこの斉藤道三の手法は前書きで書いた豊臣秀吉上杉謙信とはかなり異質である事がお解り頂けたでしょうか?

この道三の改名は確実に計算された改名であり、姓名を変えることによってそれまで実現不可能であった事を可能にしており、姓名をえる度に別人になっていると言っても過言では無いと思います。

これが一介の油売りから戦国大名に上り詰めた斉藤道三の生き方でありひたすら上を目指して駆け上がっていく戦国大名の典型例です。斉藤道三は自分も悲惨な最後を迎える事になりますが彼の凄いところは最後まで守りの姿勢を見せずに一生を攻めの人生にかけ、なおかつ自分の心に正直に動いた事であり動く際に起きるリスクを全く考えていない部分でありましょう。

しかし室町時代の通常の守護大名とは異なり道三の政治は庶民生活に直結したものであり非常に庶民的な大名でもあった訳です。

次回のブログでまたお会いしましょう。ありがとうございました。