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須佐之男の戦国ブログ

信長と道三

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前書き

今回のブログでは織田信長と斉藤道三が聖徳寺で対談した事を中心にその前後の情勢を記述したいと思いますが、その前に皆様の中にあるかもしれない織田信長に対する誤解を一つ解いていきたいと思います。

信長が家中で「大うつけ」と呼ばれていた事は事実ですがこれを現在の不良少年像と重ねる事は全くのでたらめです。信長公記に出てくる若き日の信長の姿を少し引用してみましょう。

「信長公は十六、七、八歳になるまで別に遊び事は無く、馬を朝、夕にお稽古、また三月から九月までは川に入って水泳をなさるが水泳は巧みであった、またその折に竹やりの叩き合いを御覧になり『とにかく竹やりは短くあっては具合が悪い』と仰せになって三間柄、または三間半柄の槍にされた。(中略)市川大介をお召しになっては弓のお稽古、橋本一巴をお召しになっては鉄砲のお稽古、平田三位をいつも御近くにお召しになって兵法のお稽古、または鷹狩もなさった」

とあり青年期の信長が武将として非常に勉強熱心であり遊び事にわき目も降らずに毎日を鍛錬していた事が覗える、信長は非常にまじめな勉強家でした。

では何故「大うつけ」と呼ばれていたのか?  それは日頃のふるまいです。

「町を御通りの時、人目をも御憚り無く、くり、柿は申すに及ばず、瓜をかぶりくびになされ、町中にて、餅をほおばり、人により罹り、人の肩につらさがりてより外に、御ありきなく候」

と同じ信長公記に書かれており彼が次期国主としてふさわしいとはとても思えない奇行を取っていた事が解ります。

この「大うつけ」の彼の奇行を決定的にしたのが信長が17歳の時に父信秀の急死による万松寺での父の葬儀の場でした。

喪主である筈の信長は読経が始まってもなかなか現れず、現れたと思ったらその恰好は鷹狩に行く時の服装であり、朱の長刀を挿したまま焼香台に上がると抹香を鷲づかみにして遺体に叩きつけました。

この瞬間に家臣の心は完全に冷えました。守役の平手政秀は絶望して切腹しました。信長は政秀の死を惜しみ政秀寺を建立しましたが一向にその奇行は改めていません。彼が父親の葬儀で見せたこの奇行には諸説あり私も思うところはありますがあえてそれには触れません。天才の行動に凡人が理屈を並べ立てても所詮は無駄な事であります。

美濃の斉藤道三が信長との面談を希望してきたのはその葬儀から間もない頃であり織田家中が次期国主の跡目争いが始まりかけている頃でした。

信長の考え

信長と帰蝶が夫婦になったのは信長が14歳の頃であり3年余りもの期間で道三入道から面談の申し込みがあった事は一度も無く信長が道三に会いに行った事もありません。

それがいきなりの面談の申し入れであり、父信秀の死後である事から考えても確実に裏がある事は誰が考えても解ります。

かと言ってこれを断ったらどうなるでしょうか?  美濃と尾張との同盟は破棄されて最悪、跡目争いで家中が割れている尾張へ美濃の軍勢が攻め込んでくる覚悟をしなければならず確実に織田家は滅ぼされます。「美濃の蝮」と言われる道三の策略は年を取っても巧みであり織田家が絶対に断れないこのタイミングをついて面談を申し込んできた訳でした。

それでは信長はどうすれば良いのか?  答えは一つしかありません。この面談を成功させて無事に尾張に帰って来る事であり面談する事によって道三と自分との関係を改善して味方に引き込む事だけです。

信長はその為には素の自分を道三入道に見せる事が大切だと考えてこの面談について特に準備もしませんでした。道三への土産を考えたくらいで家中の心配をよそに通常の暮らしを続けて面談の日を待ちました。

富田聖徳寺での面談

さて、そうしている間に具体的に面談する場所と日時が決定しました。場所は富田にある聖徳寺、日時は1549(天文18)年4月です。

当日になり信長は船で起湊まで行きそこから聖徳寺に向かいました。一足早く聖徳寺に到着した斉藤道三は家臣を連れて富田の町屋を借りて信長の素の姿を見てやろうと試みました。

やがて、信長の軍勢が現れ信長が現れました。その時の信長の格好は評判通りの出立ちで、片肌脱いで腰に荒縄を幾重にも巻き、火打石や瓢箪などをぶら下げて、馬に横乗りした異様なものでありました。道三の家臣は「あれが評判の大うつけか」と言って笑いだしました。しかし道三は笑いません。信長の軍勢の中に斉藤家の軍勢ではあり得ないものを見つけたからであり、こんなものを見るのは道三の長い人生の中で初めてでした。

それは500丁にも及ぶ鉄砲隊です。この当時の鉄砲は極めて高価であり、しかも実際の戦では役に立つとは言い難く鉄砲隊を持つ軍勢などありませんでした。それが500人もの軍勢となり目の前を通過していくのをさすがに道三は見逃しませんでした。

しかも信長の軍勢は聖徳寺につくとすぐに四方に屏風を立てて、その中で信長は髪を切りひげを剃り、髷を結い直して正装した涼しげな好男子となり、一人で対面場所に堂々と現れました。

この対面は形式上舅である道三の立場のほうが上であり普通は信長が挨拶をして面談が始まります。ところが到着した信長は立ったまま柱にもたれかかりあらぬ方向を向いて道三を無視しました。見かねた斉藤家の家臣が「こちらが斉藤山城守である」と言ったのに対して信長は道三を見ようともせず「で、あるか」と一言呟いただけで全くの無視です。初対面で信長は「美濃の蝮」と恐れられている道三を小者扱いして見せました。

この面談は最後までこの調子で極めて短時間で終了しました。その夜、道三の家臣が道三に「やはり信長はうつけでしたね」と尋ねると道三は「残念だが我が息子は皆あのうつけの城の前に馬をつなぐ事になるだろう」と信長に完敗した事を認めています。たった一人で対面場に現れる大胆不敵さ、会場に着くなり身なりを整えて現れ巧みに500丁の鉄砲隊を配備して万一に備えた神経の細やかさと歴戦の強者である自分を小者扱いする事によって優位な面談に導こうとする駆け引きの上手さに道三は初めて自分以上の存在としての信長を見た訳であり、これが信長が戦国武将として認められた初めての瞬間でした。道三は信長に魅入られてしまった訳でありここから本当の美濃と尾張との同盟が始まりました。

斉藤道三の最期

道三はこの面談以降全面的にに信長をバックアップする様になります。信長も道三に盛んに文を送るようになり、この面談以降初めて「舅殿、婿殿」の関係が成り立つ様になりました。

ところがこの関係を一番面白くなく感じたのが道三から家督を継いだ斉藤義龍であり1555(弘治元年)道三に向かって挙兵します。理由はいくつかありますが実の息子より娘婿の信長を可愛がる道三を許せなかったのが最大の理由でしょう。翌1556年にこの親子の両軍は長良川の戦いで激突しますが道三のこれまでの成り上がり方から道三に付く武将が殆どいなかったのが現実で数の力で一方的に道三軍は敗れて道三は打ち取られます。この戦いが始まるとの一報を聞いた信長は自ら先頭に立ち援軍を向けましたが間に合わず道三は打ち取られてしまいました。

自分の最後を悟った道三は家臣に信長に向けての書状を渡します。この書状こそが自分の死後は美濃一国を信長に任せるという一国譲り渡し状であり道三の遺言でした。後にこれを読んだ信長は号泣したという話です。しかしこの道三の遺言こそが信長が美濃を攻める正当な理由になった事は確かであり数年後に美濃攻めが開始されます。

但し、現実問題として尾張の信長にとって一番脅威であったのは度々領土内に侵入し入洛の勢いを見せる今川義元であり、尾張の兵力の十倍以上の兵力を持つ今川軍は信長にとって最重要問題でした。織田信長はこの時点ではまだ一人前の戦国武将とはいい難い存在であり注目され始めるのはこの今川義元との桶狭間の戦い以降になります。

あとがき

ここまでに記述した事が道三と信長との面談であり道三の最期まででありますが皆様はどう感じられますでしょうか?

成り上がりの戦国大名の典型例ともいえる斉藤道三が織田信長と直接出会った瞬間から変わってしまった事が良く解ると思います。道三が見た17歳の信長はそれだけの魅力を持つ青年であった訳であり、だからこそ彼はこの時代の天下取りレースのトップをやがては走る事になります。

さて次回のブログですが目を移して強豪が犇めいていた関東から北陸を見てみたいと思います。戦国時代に信長が台頭してくる前はこの関東の豪族が最も優位であり武力でもその領土の広さでも他の地域よりも一歩先んじていました。

次回はその中から甲斐の「武田信玄」を記述したいと思います。私が最初のブログで天才の一人に挙げた人物です。この武田信玄のどこが他の武将と比べて異質であり信玄の残した業績とはいったい何であるのかも出来るだけ詳しく述べてみたいと思います。

宜しくお願い致します。