須佐之男の戦国ブログ

武田信玄(一)

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前書き

優秀な戦国時代の国主の条件とは何でしょうか?   勿論、領土を拡大して勢力を広げ天下に号令するのが理想像ですが、それは戦国大名にとっての理想像でありこの時代の一般庶民(多くは農民)にとっては関係の無い話です。室町時代の足利幕府の平穏な時代を何の秩序も無い下剋上が当たり前の戦国時代に持っていったのは、まぎれもなくこの一般庶民の怒りの爆発であり、それが一向一揆という形で日本中に現れた結果の室町幕府の権威の失墜であり戦国時代の到来でした。

つまり室町幕府の方針に庶民は最初から不満を持っていた訳であり、この不満の解消を考えない限り絶対に世の中は収まらない訳です。力で無理やり封じ込んでも力が衰えればまた爆発します。何故室町幕府の体制が崩れたのか、その根元を解決しない限り平穏な世の中は絶対に訪れません。武田信玄の登場はこの根元を徹底的に考えた戦国武将の登場であり「戦」よりも彼が重点を置いたのは明らかに「国造り」であり謀反の心配の無い世の中を自国内から創る事に最大の努力を致しました。

武田信玄はその一生で死ぬまで自分の住む城を持たず塀も堀も無い館に住み続けました。彼の考えは自国民を信じる事であり人々の信頼が領土を拡大し勢力を広げると信じて疑いませんでした。

「人は城、人は石垣、人は堀」という彼の言葉は有名で何よりも大切にしたのは人でありそれは特定の武将だけでは無く、農家から行商人まで信玄の目線はいつもそこにありました。裏切りや謀反を起こすのは人の不満が元であり不満が無ければ争いは起こらないという姿勢は終始変わりませんでした。

甲斐という領国

現在の山梨県である甲斐が彼の領国です。隣接する大名は関東相模を抑え自国内に鎌倉という武家政治の発祥の地を持つ北条氏政駿河から遠江まで抑えて海道一の弓取りと言われた今川義元であり、経済力でも領土の広さでも取れる米の石高でも全く話にならないほど違います。甲斐は山だらけの土地でありその為に洪水も多く決して恵まれた領土ではありませんでした。

またこの地の豪族は独立心が強く簡単に国主には従いません。有利と見れば平気で国主を裏切り他国の大名に仕えます。これを力で抑え込もうとしていたのが先代の武田信虎であり、そうした父に反発していたのが後に信玄と法名を名乗った武田晴信でありました。この親子の対立は深刻化し信虎は自分の跡取りに次男である信繁を擁立しようとします。危機を悟った晴信は実の父親駿河に追放し、国主の座を手に入れました。晴信はこの弟の信繁と自分とで合議制による国造りを始めた訳であり、領国内の豪族を呼び集めてそれぞれの意見を聞いた上での作戦いつも立てました。豪族の管理する領土まで自分が支配しようとは考えずに、その裁量は豪族に任せて税金だけは納めてくれという形であり甲斐という小さ国の中に合衆国を築いた訳であり、それによって自国の領土をうまく治める事を考えました。ここでも晴信は人を信頼する事によって領国の安定を目指した訳でありこれが晴信の人使いでした。

洪水を無くし金山を探す

国主となった晴信が最初に考えた事が自国から洪水を無くし石高を上げて領民の暮らしを安定させる事です。信玄堤と言われる堤防は現在でも残っておりとにかく洪水を防ぐ為にあらゆる手を打ちました。地盤が弱い部分には竹を植えて地盤を強化する事や川の流れを変える事によって洪水が田畑を通らない様にする事、洪水が無くなれば百姓の不満も収まる事を晴信は解っていました。

それと並行して始めたのが優秀な人材の発掘であり、身分の如何にこだわらず優秀な人材は遠慮なく昇進させて見せました。また全国から金堀職人を集めて自国内に金山を探し出し発掘する事によって経済力を蓄えました。晴信(信玄)が本格的に戦を始めるのはそれからであり自国内の国造りを一から始める事にまずは集中した訳であり極めて優れた政治手腕です。非常に手間のかかるやり方ですがこの努力こそ、この甲斐一国は信玄が国主の間は一つにまとまり謀反も裏切りも殆ど無い状況になりました。

風林火山孫子の兵法

武田信玄の戦法を語る上で絶対に外せないのがこの風林火山の旗印です。

「その早き事風の如く、静かなる事林の如く、侵略する事火の如く、動かざる事山の如し」

この変幻自在の動きを可能にしたのが自由な領土経営を任された個性豊かな豪族達でありこの動きを晴信は一つにまとめて見せました。孫子の兵法を徹底的に分析した晴信の戦にはいくつか特徴があります。彼は人を重んじる性格ではありましたが、この場合の「人」とは自分の領国内の人間だけであり他国の人間とは最初からはっきり分けています。晴信の戦法は絶対に自分の領国内では戦は行わないという事で徹底しており他国を戦場として戦います。戦場が焼け野原になっても自分の領土では無いし勝てば新たな領土が手に入ります。今でいう侵略戦争しかしないというのが戦の前提であり、現実に晴信の軍勢は若い頃に村上義清に二度負けて以降は殆ど負け知らずであり諜報、謀略を行いつつ戦を仕掛けるこの戦法で北に向かって領土を次々と拡大していってついには北信濃の奥にまで攻め込みます。

そこで武田軍は今まで見た事も無い軍勢と初めてぶつかる事になりました。

越後の虎との出会い

村上義清は結局は武田晴信に追われて越後に逃げ込み越後守護代で実質的には越後国主であった長尾景虎(後の上杉謙信)に泣きつきます。自分の領土を取り戻すのに力を貸してほしいという事です。長尾景虎は早速軍勢を率いて北信濃に出兵しました。

武田軍が北信濃善光寺平の川中島近くで遭遇した軍勢はまさにこの長尾景虎が率いる越後軍でした。

渦巻き状になった「車掛り」と後に呼ばれる様になる異常な陣形、近距離に接近しているのに物音ひとつ聞こえてこない静かな軍勢を見て晴信は早く攻めかかる様に命令を待っている家臣に対して動かない様に支持を出します。

「良き軍勢とは優しげで物静かで落ち着いて見えるものである、あの軍勢は強い」

晴信はこれまで戦をしてきた軍勢と越後軍の質の違いを見抜いていました。動いたらこちらが危ないと判断した訳であり、正面からの戦いを避けて「引け」の命令を出しました。武田軍が引く動きを見せると越後軍も引き上げる動きを見せましたが、本格的に武田軍が引き始めるといきなり攻撃態勢に変わり晴信が引いた後の城を立て続けに落として見せました。

これが12年間続いた川中島での「戦国時代の龍虎」と呼ばれた信玄と謙信との両雄の最初の衝突です。あえて自らの手の内を見せずに引いた武田晴信に対して長尾景虎は逆に自分の正体を見せつける事で相手に恐怖感を植え付ける為に動いて城を落として見せました。その動きは神出鬼没で凄まじい速さであり、武田晴信はこの時から自分の本当のライバルが誰であるのかをはっきりと意識する様になりました。

あとがき

本文中で武田信玄の事を信玄と書いたり晴信と書いたりしてややこしかった部分はお許しください。

武田信玄というのは法名であり同じく上杉謙信法名です。つまり両雄がこの名前で戦った事は一度も無く武田のほうは武田晴信上杉謙信の場合は最初は長尾景虎であり戦う度に、上杉政虎上杉輝虎と名前を変えておりしかもこの川中島は12年間5度に及ぶ戦いであり非常にややこしい訳です。この5度の戦いすべてを記述する事はありませんが激戦となった四度目は改めてブログで取り上げる予定です。五度の戦いとは言ってもこの両雄はお互いの力を認め合っておりまともにぶつかったのは一度だけです。

何故、信玄がわざわざ強敵のいる北に向かって軍勢を進めなければならなかったのかというとこれも甲斐という領土の問題でもあり海に面していない甲斐国はどうしても海が欲しかった訳であり、太平洋側の海は駿河の今川、関東の北条に完全に抑えられており北を目指すしか無かった訳です。

さて次回のブログですが今度は越後の上杉謙信を「自分を神と信じた男」として取り上げたいと思います。「武田信玄(二)」はその後にまた必要に応じて取り上げていきたいと思います。

上杉謙信についても複数回取り上げるつもりでありこの武将は他のどの戦国大名よりも確実に変わっており普通の人間の神経からは完全に逸脱した戦国武将でありかなり特殊な存在です。

誠に勝手ですがそういう手順でブログを進めていきたいと思いますので宜しくお願い致します。