須佐之男の戦国ブログ

武田信玄(二)三国同盟

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前書き

長尾景虎(後の上杉謙信)の軍勢と二度戦った武田晴信は武田軍全勢力をぶつけない限り、決してまともに戦えない事を悟ります。景虎の率いる越後軍の強さは猛烈であり、景虎の周辺国への信頼は絶大であり、その力はますます大きくなっていく事は確実でした。

その当時の関東諸国の勢力図は駿河今川義元が最大であり、小田原の北条氏康と何度も戦っており、武田家は今川家とも北条家とも縁戚関係を結んでいましたがそれで万全とはとても言えず、この両者が戦う度に両方に援軍を送らなければならないという非常に厳しい立場にあり、双方向に敵を抱えていては越後軍に対して不利になるだけでした。

そんな折に大変な事態が起こりました。北条氏に鎌倉を追われた関東管領上杉憲政が越後の長尾景虎を頼り、長尾景虎を自分の養子にして上杉政虎と名乗らせ関東管領職を上杉政虎に継がせたという事件です。この事で上杉政虎の率いる越後軍は関東諸国すべての支配権を手に入れたのであり、甲斐一国の国主である武田晴信とは大きな差がついてしまいました。越後軍と単独で戦う無理を感じた晴信はどうしても同盟が必要になった訳です。

ここで今川、北条両氏についてその勢力と思惑を簡単に触れておきます。

今川義元

石高でも家柄でも、また上洛して天下を治める野望についても東海、関東での今川義元の力は図抜けていました。もともと今川家は室町幕府の将軍である足利幕府の直系の子孫であり、その為に今川義元はすべてにおいて京風を好んだとされています。後に桶狭間で信長にあっけなく打ち取られた今川義元を現代から見て弱い武将であったと考えるのは大間違いであり、その勢力は駿河から遠江国、岡崎にまで及び尾張の織田家に隣接する大大名でした。岡崎の人質として松平元康(後の徳川家康)を抱える今川義元はその最後の生涯まで常に天下取りレースのトップの座にいました。但し、今川義元としては京に向かって西に侵攻するのには背後の武田、北条氏とはどうしても同盟が必要であり背後の敵を無視した状態では上洛は無理だったのが現実です。

北条氏康

今川義元とは対照的に家柄も何も無い立場から下剋上でのし上がって関東の大大名に成ったのが氏康の祖父、伊勢新九郎盛時であり、鎌倉を抑え後北条を名乗り北条早雲と名乗った伊勢新九郎盛時の二代目が北条氏康でした。成り上がりものであるから能力が落ちると考えるのは早計であり、小田原に巨大な平城を築城し、度重なる上杉謙信武田信玄の攻撃にも籠城して耐え抜きその生涯は小田原城を守り抜いて見せました。自分の息子がみそ汁のお代わりをするのを見て

「自分の食べられる量も解らない者が人を動かせない。息子の代で北条家は滅ぶ」

と予言したのは有名で現実に豊臣秀吉によって息子の代で小田原城は攻略されて北条家は滅びました。名前をわざわざ鎌倉時代の執権であった北条氏に変えていることからも北条家の狙いは明白であり関東地方の完全制覇です。その為に今川義元とは何度も関東の覇権をめぐって戦を繰り返していた訳でありましたが、関東管領上杉政虎が就いたことは脅威であり、武田晴信と同様に今川義元と争っている場合では無くむしろ武田晴信と同盟を結ぶ事によって越後軍に対して武田、北条が協力して戦線を張る事によって何とか越後軍の侵攻を止めたいのが本音であり、今川、武田と同盟を結ぶ事によって越後に全勢力を向けたい思いでした。

三国同盟成立

この様に三者三用ではありましたが今川、北条、武田ともに同盟を結ぶメリットは充分にあった訳です。そこで今川と北条の戦の仲介という形で武田晴信が間に入り、この三者は天文23年(1554年)に正式に軍事同盟を結びました。

ただ、この同盟にはデメリットも多く今川義元桶狭間織田信長に打ち取られた永禄3年(1560年)に武田晴信により一方的に破棄されます。実に6年も持たなかったのが現実でした。今川から見たデメリットは自分が上洛する為に実際に動いた時に北条、武田氏をどれほど信用できるかという点にあり、同盟を破棄して自分のいない駿河に攻め込んでくる可能性は充分にあります。自分が天下を治めるのを北条、武田が黙って見ている筈が無いと考えるのは当然でした。武田、北条氏から見たデメリットもまさにそこにあり、京に上る道を同盟と言う名の元に今川氏に塞がれてしまう事にあります。関東にしか興味が無い北条氏とは違い甲斐の武田晴信が何よりも欲しがっているのは海であり、山梨県には海がありません。海を目指して武田晴信はわざわざ強敵のいる越後に向かって侵攻している訳であり、現実に今川義元織田信長に打ち取られるとすぐに武田晴信は越後への侵略をやめて、それまで苦労して取った北信濃上杉政虎に返して駿河に攻め込みました。この身替りの速さは武田軍の特徴であり、武田晴信は最初からこの同盟を全く信用していません。超現実的なのは信玄の特徴であり、この三国同盟の成立と同時期になんと尾張織田信長とも同盟を結んでいます。今川義元が最初に攻める尾張の織田家と今川家と同時に同盟を結ぶという離れ業を平気で実行している訳であり、これが武田晴信の外交手腕でした。

この織田家との同盟が桶狭間今川義元織田信長が破るという戦国時代最大の逆転劇である桶狭間の戦いに直結していると考えるのは当然だと思います。次回は再び尾張織田信長に戻り「勘風発迷」を記述したいと思います。宜しくお願い致します。

あとがき

次回のブログの主題である「勘風発迷」とは武田晴信織田信長使者に伝えたとされる言葉です。これは今川義元の上洛をどう思うかとの信長の問いに答えた言葉だとされています。確かに信長は戦国大名の中でも図抜けて情報戦を重視した武将でした。

しかし今川義元の部隊は補給隊も入れると四万人近く、それを迎え撃つ織田信長の軍勢はすべて集めても四千人もいなかったと考えられており、桶狭間に実際に向かった兵力は千人未満だったと思われます。今川の兵力を分散させてもどう考えても今川義元を打ち取る事は不可能であったと考えるのが当然だと思います。映画などで皆様は桶狭間が窪地であり、そこに今川義元が休息しているところを信長軍が襲い掛かったイメージをお持ちでしょうが現実には窪地にいたのは織田軍であり、今川軍は丘の上に陣を取っていました。これは戦の常道であり敵地で休息するのにわざわざ不利な窪地を選ぶ武将はおりません。今川義元織田信長を甘く見ていたとの説もこの両者は直接ではありませんが何度も戦っており義元がそこまで信長を甘く見ていたとはどうしても考えられません。どうやって今川軍と戦うかという軍議も信長は一切行わなかった事は確実な話の様で信長は猜疑心が強く自国の兵の中に今川の諜報員が潜んでいる危険性があったからだと言われています。そんな人間が自分の諜報員の情報には完全に従って動いた事に不思議さを感じられませんでしょうか?

しかし現実の桶狭間の戦いは二時間ほどで終結し、今川義元は打ち取られました。これは歴史のミステリーとしか言いようが無い大事件で裏が無いと考えるほうが不自然でしょう。

ここからは私の推測ですが信長が信用して動いていた諜報員が武田晴信の部下だったらどうでしょうか? 直接的では無く間接的に接していたとしてもこれなら信長は100%信用して動ける訳です。何故なら今川義元はこの時点で織田、武田両氏にとって共通の敵であり相手を騙す理由は何もなくなります。よって次回のブログはこの私の勝手な推測によって進めさせてもらいます。この方法でしか私にはこの逆転劇が説明できないのが現実です。武田晴信織田信長との同盟関係はこの時が一番強く、その後駿河に侵攻した武田晴信徳川家康とも織田信長とも結んでいた同盟をいとも簡単に破って西に向かって行軍しています。これはまた別の機会のブログになりますが京に向かって行軍する武田軍はついに三方ヶ原で織田、徳川の連合軍とぶつかりこれ簡単に撃破して信長の叔母を武田晴信の部下の側室にまでして信長を愚弄し進軍を続けました。どう考えても武田晴信の結んだ同盟とはその場しのぎのものでしか無く、用が済めば簡単に破棄しています。この物凄くドライな政治力が武田信玄の天性の才能であり過去に何の未練も残さずにひたすら自国の事だけを考えて前だけを向いて突き進んだ生涯でした。

そういう訳で次回のブログは真実とは異なるかもしれません。でもこの桶狭間の戦いは武田が協力していたとしないと説明が出来ない事が多すぎます。ご容赦ください。