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須佐之男の戦国ブログ

川中島決戦(一)決戦への道のり

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前書き

前回の「桶狭間の戦い」から、今回は場所を甲斐と越後の国境であった「川中島」へと移して、数回に分けて記述していく予定でおります。

この第四次川中島の戦いは「桶狭間の戦い」の翌年の永禄4年(1561年)行われた甲斐の武田氏と越後の上杉氏との正面からのまさに決戦であり、この戦による戦死者は上杉軍が3000人以上、武田軍は4000人以上であった事は確実で死者と同じ数の負傷者が出たと考えれば両軍勢ともに全軍の3分の1以上の軍勢が被害を受けている事になり、戦国時代の戦の中でも飛びぬけて悲惨な戦いであった事は明白です。

しかもこの決戦の結果は「引き分け」としか言いようのないものであり、その後もこの両者の戦いは続いていきます。ちなみに天下分け目の関ヶ原の戦いでの東軍の死傷者は全体の4%程度です。この時代においてもこの第四回川中島の戦いがいかに特殊な戦いであったのかをご理解ください。戦国最強の武将と言われた「越後の虎」と「甲斐の龍」とが正面からぶつかったのはこの一度だけです。今回のブログではそれに至るまでの両者の動きと、この戦の背景を私なりに記述したいと考えています。宜しくお願い致します。

それまでの両者の戦い

この戦までに武田軍と上杉軍は3度戦っておりました。第一次の合戦は天文22年(1553年)でこれまで破竹の勢いで北に向かって進む武田軍を越後の長尾景虎は北信濃川中島で完全に止めて見せました。この戦いでは武田軍が戦を避けたのが現実で小競り合い程度の戦で両者とも引き上げました。

第二次川中島の戦いは天文24年(1555年)に行われ、犀川の戦いとも呼ばれたこの戦は川を挟んで両軍が200日以上事実上にらみ合いを続けただけで終わりました。この時には長尾景虎関東管領として上杉政虎と改名しており、武田晴信は前年に三国同盟を結んでおり、双方が全軍をあげての戦になった訳ですが両者ともに相手が強敵である事は理解しており川を挟んで動けなかったのが現実です。先に動いたほうが明らかに不利であるという思いは両者ともに解っており、軍勢を引けば引いただけ攻められる事も解っていました。結局はこの戦は今川義元が仲裁に入り両軍勢ともに引き上げて終わりました。

第三次川中島の戦いは弘治3年(1557年)に行われ、上野原の戦いとも呼びます。これは北信濃で謀略活動を行う武田晴信上杉政虎が怒り、武田軍との決戦を覚悟で上杉軍は北信濃に攻め込みました。しかし武田晴信上杉政虎との決戦を避け、謀略で落とした城を巧みに防衛しつつ川中島で小競り合いをしたのみであり、9月になると上杉軍は武田との決戦をあきらめて越後に帰り、10月には武田軍も甲斐に引き上げました。

これが第四次川中島の戦いまでの両軍の衝突です。お互いに相手の実力を認め合っており決して無理な戦いは行っておりません。この3度の戦はいずれも軍勢同士の戦いというよりもお互いの作戦のぶつかり合いであり、特に武田晴信は上杉軍と正面から戦う事を避けてきました。上杉軍も決して無理な深追いはせずに無理があると判断した後はすぐに軍勢を引き上げています。強力な軍隊と冷静な判断力を併せ持つこの両軍は3度戦っても決して正面からぶつかる事はありませんでした。

第四次川中島の背景

しかしこの両者は決してそれぞれの方針を転換した訳では無く、双方ともに敵対国である事に変わりは無く戦の準備は着々と進めていました。

まずは武田晴信側ですが川中島への侵攻は越後軍より距離があり、どうしても両軍が同時に出陣すれば武田軍は到着が遅れてしまいます。それを解消する為に川中島までの最短距離を進める「棒道」と呼ばれる一本道を作り、川中島に武田軍の前進拠点である海津城を建設して上杉軍に備えました。また自国に山が多いのを利用して敵が動いた時に山上からのろしを上げて合図できる様に戦に向けての準備を整えていきました。

上杉政虎が考えたのは自身の権威の向上により周辺諸国を味方に付ける事でした。関東平野に攻め込み北条氏康を小田原に籠城させた上杉政虎武家発祥の地である鎌倉を北条氏から奪い取り敵地で悠々と関東管領の式典を行うと6000もの軍勢を引き連れて京に上洛し、天皇や将軍足利義輝と謁見して足利義輝の輝の字を貰って改名し関東管領上杉輝虎を名乗り、朝廷からも将軍からも自分が関東諸国を抑える大義名分を手に入れました。

この現実は越後に敵対していた武田晴信から見れば許しがたい事態であり、上杉輝虎とこれ以上戦う事は朝廷や幕府に反抗するのと同じ事になってしまいます。これを打開するには上杉輝虎と戦って一気に上杉軍を滅ぼすしか方法は無くこれまでの様に正面からの戦いを避ける事は不可能な状況に一気に追い込まれてしまいました。

自分が北信濃に侵略する正当性は何も無くなってしまった訳であり、上杉軍の侵攻には朝廷のお墨付きが出た訳です。

逆に考えれば上杉輝虎はこれ以上武田晴信を逃がさない為に、上洛し将軍の一字を貰って改名し、国主よりはるかに上になる関東管領として武田晴信に決戦を迫った形になります。

武田晴信はこの現実を悟り、同盟相手で同じく上杉勢と戦っている北条氏政と連携しながら決戦の時期を探る様になりました。こうしていよいよ第四次川中島の戦いが迫ってきました。

あとがき

この両者とも戦国武将として一流である事がお解りいただけたでしょうか?  決して無駄な動きも戦いも行わず、お互いに相手の弱点を探りながら出来る事を確実にやって相手を追い込んでいく。戦を急いでもいなければ、無理も絶対に行わない。

確実にこの両雄は戦国時代の傑出した武将です。但し、その考え方は全く違っており、謀略を重ねながら領土を拡大していく武田晴信とあくまで正攻法を貫く上杉輝虎は両者ともに天才ではありますが、全くタイプが違います。この両者が国境を接していた事は悲劇としか言いようが無く、だからこそ12年間も争う事態を招いてしまったのです。

しかしこの両者に敵対心だけしか無く何の共感事項も無かったと考えるのは早計でお互いの事を尊敬しており、敵同士ではありながらかなりお互いを信用している関係でありました。

武田信玄の遺言は自分の息子に対して「困った時には上杉謙信を頼れ」であり、武田信玄の死を知った上杉謙信は食事中に泣き崩れて「信玄こそ英雄なり」と言い残しています。この二人は非常に素晴らしいライバル関係であったと私は考えています。皆様はどのようにお考えでしょうか? 

さて次回は今回の続きで「川中島決戦(二)出陣」を予定しております。宜しくお願い致します。