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須佐之男の戦国ブログ

信長の軌跡(一)人間 織田信長

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前書き

前回のブログの最後に今回から織田信長についてしばらくはブログに記述する事を書きましたがこの武将は他のどの戦国大名とも比較が出来ません。信長の死後に信長の実績をたたえ、自らを信長の後継者と名乗った東北の雄である伊達政宗でも実際の織田信長の思考とは全く違います。

信長は戦国時代に忽然と現れた突然変異のニュータイプの人類と言っても良く、その行動や実績は誰とも比較する事は不可能ですべてにおいて独特であり比較出来る人物がこの時代には一人もおらず、日本の歴史全体を見渡しても殆ど誰とも似ていません。

今回のブログは信長の足跡を記述する最初のブログであり、現実の織田信長とはどういう人物であり何が他の戦国武将と徹底的に違っていたのかをまずは記述してみたいと考えています。宜しくお願い致します。

領土に対する考え

戦国武将にとって自国の領土を守り拡大し、経済力を蓄えていくのは当然の考えであり、それを怠れば自国が滅ぼされると考えていた事は間違いの無い事実です。

ところが織田信長には最初から裕福な領土を手に入れて自分の力を拡大していくという観念が全くありません。

その典型的な例が桶狭間の戦い今川義元を討ち取った後の織田信長の行動です。今川領土には金山も多くあり、加えて魅力的な港も豊富なコメを取れる田も多くあったのにも関わらず、織田信長はこの今川領土に何の関心も持っていません。旧今川家の領土はすべて戦国大名として初めて独立した徳川家康に与えて徳川家康と軍事同盟を結んだだけです。自分の最大の強敵を討ち取った戦国武将がその強敵の領土には何の関心も持たなかったことなど、この戦国時代の戦国武将にはあり得ない話です。織田信長の領土的な野心は尾張から京につながる場所だけに初めから限定されており、その場所以外の領土には何の興味も感じませんでした。この武将だけは小大名であったころから確実に天下を取る事を具体的に考えており、その為の最短距離を進む姿勢は徹底していました。

天下を治めるという野心

この時代の戦国武将に肝心の「天下を取る」という意味ですら織田信長と他の戦国武将とでは全く意味が違います。他の戦国武将が考えていたのは無力化した室町幕府の足利将軍に替わって自分が将軍になり天下を治めるという事であり、これまでの武家社会の延長戦上にその考え方は間違い無くあります。

ところが織田信長にとって天下を取るという意味は自分が征夷大将軍になる事とは全く違います。彼の考えは日本の構造自体の破壊的創造であり、すべての既得権益の崩壊です。将軍を頂点とする武家社会も宗教の既得権益も朝廷の権威さえ織田信長は敵対視して見せました。そして自分が上にあがるまでは天皇の権威も将軍の権力も徹底的に利用するという姿勢で天下取りに挑みました。足利義輝が殺された後に、足利義昭が正当な後継者であると主張して上洛し彼を将軍の座に付けたのは織田信長です。しかし彼は足利義昭からの副将軍への依頼も管領職の依頼も全て断り、将軍を二条城に閉じ込めた状態にして自分がすべての政治を動かしました。朝廷から見ても織田信長は右大臣という極めて低い身分でありながら正親町天皇に退位を迫り歴の改定を強要しました。こんな事は日本の歴史上一度もあり得なかった大事件であり、一部の歴史家から信長は天皇の廃止も考えていたと言われる根拠はこれです。

しかしもし信長が本能寺の変で討たれていなかっても信長が朝廷を廃止する事はあり得なかったと私は考えています。信長が朝廷にも将軍にも宗教勢力にも要求し続けた事は「政治には口を出すな」という一点であり、国内の政治は何の既得権益も無い自分がすべて新しい体制で行うという意志表示です。この信長の意志に納得できずに反乱を起こした足利義昭は追放され15代続いた室町幕府は完全に終焉しました。

信長にとっての天下を治めるという事業は完全に既得権益との戦いであり彼はその意味でも極めて特殊な存在です。

信長の性格

信長の性格については多くの人が残忍で神仏を全く信用しなかった恐ろしい性格であったと誤解していますが、現実とはかなり異なります。

織田信長は自分の部下に対しても一度の裏切りは何の問題にもせずに許しています。織田家の家老であり信長の重臣であった柴田勝家は一度は織田信行について信長に反逆を起こした首謀者です。前田利家は信長の寵愛していた坊主を斬り一度は謹慎処分にされています。羽柴秀吉でさえ信長の指令に逆らって勝手に戦場から軍勢を引いた事で謹慎処分を受けています。信長は自分に逆らった部下を許す性格であり決して短絡的に人の命を奪う性格ではありません。信長が残酷な性格であったと思われている理由は殺した人間の数では無く殺した人間の質の問題です。

例えば浅井長政に裏切られて酷い敗戦を経験した信長は浅井の領土であった小谷の住民の皆殺しを命じています。比叡山延暦寺の焼き討ちに対する比叡山延暦寺の僧侶の皆殺しや高野聖のなで斬りなど非戦闘員であり当時の聖職であった僧侶に対する厳罰は徹底していました。これは信長の最大の敵が宗教勢力であった為に仕方が無い事でした。信長がキリスト教を保護したのは有名ですが決して彼はクリスチャンでは無く、最終的に「大六天魔王」を名乗って宣教師を追放します。築城に3年はかかると思われていた二条城を半年で完成できたのは一番時間のかかる石垣の設置を京都とその周辺の墓石を石垣にして建築したからであり、それゆえに彼は神仏を全く信じなかったと思われている訳です。

真実の信長の宗教観は目に見えないものは信用できないという立場であり、信長は今で言うオカルトの世界に非常に興味を持っており、奇術が出来るという超能力者が現れると好んで城に呼んで自分の目で確認しています。

但し、彼は偶像崇拝は一切信じない性格で、墓石や石仏はは単なる石であり、人間が作った仏像や神には何の興味も無かっただけです。信長がキリスト教仏教より大切にしたのは当時の日本のキリスト教が何の既得権益も無い宗教であったからであり、信長は異なる仏教の宗派の論争を積極的に行わせました。

長が知りたかったのは目に見える真実であり、目に見えないものを決して受け入れなかっただけです。既得権益とは関係なく宗教を信じる者はどんな宗教であっても信仰を認めており、特定の宗教を弾圧した事も無ければ排除した事もありません。

信長が敵対視したのは既得権益を持った宗教団体であり決して宗教自体を敵対視しませんでした。

現在から考えてもかなり変わり者であった事は間違いが無い事ですが、信長の合理主義とはそういう世界観です。当時の西洋から来た宣教師が信長に地球儀を見せて「地球は丸いものである」と言った時に即座に信長が「理に適う」と言って納得した事は有名で、初めて地球儀を見せられた人間が即座にそれを認めたのは初めての事であり地球儀を見せた宣教師もたいへん驚いています。

土地に対する考え

人間は、特に日本人は住む土地に縛られた性格だと言われており、長年住み慣れた故郷を大切に考えます。ところがこの土地に全く縛られず愛着も持たず、その生涯をその状況に合わせていとも簡単に居住地を代えたのが織田信長です。

尾張の小大名に成った時の信長の居城は清州城でした。ところが美濃攻めが始まると織田軍勢もろとも小牧山に居城を移します。美濃を攻略すると稲葉山城岐阜城と名を改めて居城にして、上洛を終えると琵琶湖に接した安土に巨大な城を建築しまた居城を変えています。

安土の次には大阪の石山本願寺跡に移るつもりだった様で織田信長が死んだ為に、その意思を豊臣秀吉が継いで大阪城を築城したのは確かなようです。

とにかくこの時代にこれほど自分の住む城を変えたのは織田信長だけであり、彼に日本人固有の土地に対する愛着心など全く無かった事は明白です。この信長の自分の居城を移す事にはそれぞれ彼の計算があり、決して京に城を持たなかったのにも既得権益に取り込まれる事を何よりも嫌った信長の計算です。

一般的に城下町と言えば敵に攻められにくく複雑に周りの道を作る事で有名ですが信長の建築した安土城の城下町は城まで続く一本道が通っていた事が有名であり、安土城天守閣は「天主閣」という字であった事も解っています。

織田信長の人間としての感覚が当時も現在から見ても特殊であった事がご理解いただけたでしょうか?

あとがき

織田信長が他の大名と全く違った世界観を持ち、その理念に忠実に従って行動していた最大の理由は彼が一番大切に考えていた事が日本の経済であった事です。一般庶民が既得権益によって商業活動を妨害され不当な金品を要求されていた事は織田信長から考えれば決して許される事ではありませんでした。熱田神宮から伊勢神宮に向かう為には寺社が作った関所をその度に金を払って100か所以上も通る必要があり、輸送商品の価格は跳ね上がってしまいます。

これを一部の「座」と呼ばれる特権を持った商人だけが販売できるシステムになっていた当時の日本の既得権益の酷さに織田信長は正面から戦いを挑んだ訳であり、信長の活躍によって一般庶民は既得権益から解放されて日本の経済は飛躍的に向上しました。

織田信長は恐ろしい武将であった」という言葉は既得権益の中で自分は何もせずにのうのうと暮らしていた一部の人間の本心であり既得権益から解放された一般庶民から見た織田信長は確実に救世主であった訳で決して織田信長は恐ろしい武将ではありません。

織田信長の視点はその生涯を通じていつも一般庶民から見た目であり、極めて短期間で織田信長が天下に号令をかける立場になれた事は彼を支持する一般庶民の応援があったおかげです。

織田信長の領土内では関所が激減され兵農分離によって農民は戦から解放され楽市楽座の制度によって誰でも簡単に商売を始める事が出来るようになりました。封建時代の中で突然始まった民主主義の原点とも呼べるこの織田信長の政策を批判できる一般庶民は殆どいなかったと私は考えています。

次回からいよいよ織田信長の天下取りの過程に踏み込んでいきます。次回は「織田信長の軌跡(二)美濃攻め」を記述したいと思います。駿河今川義元を討ち取った直後から信長の関心はかつて斉藤道三がいた美濃一国に完全に絞られていきます。しかし道三の死後も美濃は大国であり、信長はこの一国を落とすのに3年以上も費やす事になります。その中で信長は考えられない奇抜な作戦を立ててそれを礎にして一気に美濃を落とします。次回も宜しくお願い致します。