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須佐之男の戦国ブログ

 織田信長の軌跡(二)美濃攻め(1)                   木下藤吉郎

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前書き

織田信長尾張戦国大名であり、革新的な人間であった事は前回のブログで記述しましたが、信長一人がいくら革新的で斬新な考えを持っていても、それを完全に理解して実行してくれる家臣がいなければ信長の戦略は何も実行できず幻に終わってしまいます。尾張の信長の部下たちは当然、当時の武将のごく一般的な考えしか持っていなかった訳であり信長の奇抜としか考えられない政策を実行する為には確実にそれを理解した部下が必要な訳です。信長は自分の考えを完全に理解してくれている武将を二人持っており、この二人を競わせてその能力を引き出す事によって自分の政策を実現させていきました。

その二人とは木下藤吉郎と美濃を攻略した後に信長の部下になった明智光秀です。以外に思われるかも知れませんが、本能寺で信長を謀反によって討った明智光秀は確実にその中の一人です。明智光秀に関してはまた別の機会でブログに取り上げますが、今回は木下藤吉郎について私なりに分析して記述してみたいと思います。

勿論、この木下藤吉郎とは後に信長の後を継いで天下を取った豊臣秀吉であり戦国時代を語る上では決して外せない人物です。この美濃攻めは木下藤吉郎の働きによって達成されたと言っても過言では無く、その後の信長の勢力の拡大にも彼は大きく関わってきます。彼もまた信長とは完全に別次元で非常に変わった考えを持った人物でした。

その出自と信長の部下として活躍するまで

木下藤吉郎の出自については正確な事は何も解らないとしか言いようが無く、尾張の中村の百姓の出であったという事も信長の草履取りをしていたという事も何の証拠も無く、間違いが無いのは歴史書に記述する必要が全く無いほど低い身分であったという事です。戦国時代の武将はその殆どが政略結婚をしているのに対して木下藤吉郎の結婚は完全に恋愛結婚です。彼は小者と言われる侍とは言えない低い身分から足軽へと出世した後に自分の上司である足軽組頭の娘である「おね」(ねねとの説もあり)と恋愛し、結婚しました。彼はその生涯に十人以上の側室を持つ身分になりましたが、死ぬまで側室と正室であるおねとの扱いはしっかりと分けて考えてており、どれだけ側室が増えようとも自分の最初に結婚したおねとの差は比較にならないほど違います。彼は自分が朝廷から位を頂くとおねにも絶えず位を与え続け、最終的におねの名は「豊臣吉子」となり、彼女の位は「従一位」にまで上り詰めました。女性の地位としては日本の歴史上彼女は最高の地位であり鎌倉時代に権力をふるった北条政子も秀吉の死後征夷大将軍となり江戸幕府を開いた徳川家康も最高位は「従二位」であり、彼女には遠く及びません。彼女は秀吉の死後から自身の最後までこの戦国時代に一般庶民から成り上がった最高位として君臨し続けました。

特に強力だったのが豊臣家の家臣を決める人事権であり、これは終生秀吉より上であったと思われます。加藤清正福島正則などは彼女が見つけて育てた人材ともいわれており、豊臣家の勢力は秀吉の家系よりも彼女の家系の人材が確実に優先されています。

木下藤吉郎のこの姿勢は一生涯全く変わりませんでした。

その出世の方法

侍として出世する為には戦で敵の首を取って出世していくのが当然であったこの時代に木下藤吉郎には全くそんな実績がありません。彼が出世していったのはその頭の回転の良さであり、槍や刀の腕とは何の関係もありません。大名に彼がなった後も彼が考えたのは出来るだけ戦わずに相手を降伏させる事であり、それに徹していました。

木下藤吉郎が最初にその頭角を現したのは薪係となり、清州城の財政に関わる部分に関与した時だったと言われています。彼は城内で使用する食料品や備品の使用量をそれまでの3分の1以下に抑えて兵糧を備蓄し、画期的に財政状況を改善して見せました。

続いて彼が正式に士分となり侍として認められたのは台風によって清州城の城壁が数百メートルにわたって崩れ落ちた事が要因でした。半月経っても殆ど修復出来ていない外壁に信長が不満をあらわにしていたところに自分であれば3日で完全に修復すると豪語してそれを実行しました。

後に「秀吉の割普請」と言われるその方法は修復担当の職人たちを呼び集め、修復を担当する箇所を職人のチームごとに分けて修復出来た順番に合わせて賃金とは別に賞金を出すというもので職人同士の腕を競わせて職人魂に火をつけ必死に仕事をさせる事によって極めて短期間で外壁の完全修復を行うという考えであり、約束通り3日間で清州城の外壁は完全に修復し、その功績によってはじめて信長から正式に士分に取り立てられました。役に立つ人間を徹底的に利用し出世させるという信長の考えと木下藤吉郎の実績が完全に一致した訳であり、その後彼は戦の評定に加わる事も戦に信長の配下として参加する事も認められた訳であり、異例の速さで信長の元で出世していきました。

美濃攻めに対しての藤吉郎の働き

斉藤道三亡き後も斉藤竜興が国主となっていた美濃は大国であり、数年間信長と闘ってもなかなか進展しない状況が続きました。

信長は近江の浅井氏と同盟を結んで背後からも美濃をけん制する為に自分の妹であり戦国時代一の美女と言われた市を浅井長政に嫁がせて美濃攻略を考えました。そのころ秀吉と名を変えていた藤吉郎は美濃国内の豪族の切り崩しにかかります。彼は信長に仕えるまでは放浪生活をしていましたが、その折に美濃の川並衆と呼ばれた野侍の蜂須賀小六とも面識があり、川並衆を味方に引き入れて美濃の内部を混乱させます。

続いて美濃の軍師として有名であった竹中半兵衛を信長側に寝返らせる事を試みます。何度断っても自分に頼みに来る秀吉に対して最後は竹中半兵衛は信長に力を貸すのは嫌だが秀吉になら仕えると申し入れたと言われています。秀吉は「信長様に仕えて貰わないと困る」と言い申し入れを辞退したという話ですが、この話を聞いた信長は秀吉を呼んで激昂します。「何故断った? お前に仕えるのと織田家に仕えるのとどこが違う?」と激しく秀吉を叱りました。次の日に秀吉は半兵衛の家を訪れて自分の家臣になってくれと頼みこんで、竹中半兵衛は秀吉の家臣になったと言われています。こうして秀吉は自身のこれまでの経験から出来た人脈を利用して諜報活動を行い美濃の内部の弱体化を諮りました。

敵地に城を創る

その頃の尾張と美濃との争いは一進一退であり、なかなか信長としても苦戦していました。そこで信長はこの状況を打開する為に大胆な作戦を立てます。木曽川長良川との三角州である墨俣に砦を築いて一気に斉藤勢を追い込む作戦です。

ところがこの「墨俣」という地域は完全に斉藤家の領土であり、敵と戦いながら敵地に砦を創る事など不可能な事であり一向に作戦は実行できませんでした。当然の話であり、そんな事は容易に敵が許す筈がありません。作戦から半年以上が経過しても全く進展しませんでした。業を煮やした信長は織田家の重臣を叱りつけます。

そこで是非自分にやらせてくれと願い出たのが秀吉でした。彼には独自の方法によって極めて短期間に墨俣に砦を創る自信があった訳です。信長は秀吉にこの作戦を任せる事を決意しました。

あとがき

後に「墨俣の一夜城」と呼ばれるこの砦の築城の手前で今回のブログを終える事になりましたが「一夜」と言うのは大げさであり現実にはもう少し時間がかかったと私は思います。しかし、一夜で簡単に敵から攻撃されない基礎を創ってしまった事は確実だと思います。まさに秀吉の頭の回転の良さには驚くしか無いです。

答えを知っていない皆様は次回までにどうやったら敵地の真ん中に一晩で砦の基礎を築けるのか考えて頂ければありがたいです。

信長も勿論この時代の異端児であり変わっていますが、木下藤吉郎も全く違った意味で変わっています。竹中半兵衛の最初の申し入れを断ったのも、もし勝手に信長に黙って半兵衛を自分の家臣にした時の信長の怒りを考えたものである可能性も高く、彼ほど信長に叱られた武将もいないと思います。ここに決定的に明智光秀と秀吉の違いがあり、秀吉は叱られる事も非常に上手であり、叱られる事を前提に働いていた様な部分が多々あります。一方の明智光秀は信長に仕えてからは秀吉を上回る速度で出世を重ね、京と信長の居城である安土との境目の坂本に領土を持つ大大名に成りますが結局は信長に付いていけず謀反を起こす事になります。

映画や小説ではこの信長が討たれた「本能寺の変」に秀吉も関わっていたというのものも多数ありますが、現実的に見て私はそれはあり得ないと断言できます。この事もいずれブログで書いていくつもりですが信長が「本能寺の変」の直前まで秀吉よりも光秀を重要視していた事は明らかで、それ故に簡単に討たれてしまった訳です。

光秀が信長に謀反を起こした理由は全く別の部分にしっかりあります。いずれその事も記述しますが次回のブログは今回の続きで「 織田信長の軌跡(二)美濃攻め(2)美濃攻略」を記述したいと考えています。宜しくお願い致します。