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須佐之男の戦国ブログ

織田信長の軌跡(四)信長上洛

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前書き

織田信長今川義元桶狭間で破って諸国から戦国大名として認められたのが永禄3年(1560年)、美濃を攻略し足利義昭を奉じて上洛したのが永禄11年(1568年)、このスピードを他の戦国大名はどう見ていたのでしょうか?

実際に驚異的な速さであり、反感を買った事は間違いが無いと私は思います。上洛する事と天下に号令する事はこの時代でも全く別の事であり、上洛だけなら信長は桶狭間の戦いの後に一度上洛しています。しかし今回の上洛は室町幕府第15代将軍足利義昭を奉じての上洛であり、将軍を通じて織田信長に反抗心を持つ戦国武将を抑え込むつもりで信長がいる事は明らかであり誰の目から見ても、勿論信長自身もこの上洛は天下を治める為のものである事は明らかでした。彼はこの時にまだ33歳という若さであり、それ故に自身の名代として将軍足利義昭を使った訳です。将軍に歯向かうものは朝敵となります。朝廷の権威も将軍の権力も知り尽くした上で織田信長は上洛しました。

都を治める事の難しさと織田信長の政策

京都はそれまで700年以上天皇陛下が在籍されている都であり、応仁の乱で荒れ果てていたとはいえ、全く他の領土とは別格であり、天皇陛下征夷大将軍もおられるこの地を治める事は極めて難しい事が現実でした。

落ちぶれていようが公家は公家であり侍などは自分の下にしか見ていません。これを力で抑え込もうとした木曽義仲は京を追われる結果になりました。武家社会の始まりである平家でさえ結局はこの地を追われて、その後政権を取った鎌倉幕府は最後まで決して京には近付きませんでした。都を治めるのと地方の領国を守る事とは全く意味が違います。まして織田信長に対しては乱暴者との噂も立っており信長にとってもここが正念場であったのは確実です。

そこで信長が最初に行った事は徹底した都の治安の回復でした。京に住む一般庶民たちが昔の雅な京の街を望んでいる事を彼は知り抜いていました。自分の家臣からその一族まで京での乱暴狼藉は厳禁にしました。侍が金を盗んだ場合、金額の如何に関わらずすべて首をはねるという「一銭斬り」を実行し京都奉行には木下藤吉郎秀吉が任命されました。「絶対に侍の食べる米は確保しておけ、米が切れれば兵が暴れる」というのが信長の厳命であり、侍の衣食住を安定させた上で厳しい処罰を与えた訳です。木曽義仲よりも織田信長の軍勢のほうが行儀が良かった訳では決してありません。命令に背いた時の処罰が徹底的に厳しかったのが現実でそれ故に行儀が良く見えただけです。

この信長の厳命の元で都の治安は劇的に回復し、信長は庶民から歓迎された訳です。この信長の都と他の地域を全く別に考える姿勢は彼が死ぬまで全く変わりませんでした。あれほど既得権益を嫌がる信長が京の関所だけには終生全く手を付けていません。都を敵に回す事はすべてを敵に回す事であり自分を滅ぼす行為である事を信長は知っていました。

京の文化の吸収と利用

織田信長は朝廷からも将軍からも官位を受ける事を出来るだけ避けた事は、これまでにもブログに書いてきましたが、彼が将軍から譲り受けたものは大津と堺の港の権益です。信長は尾張にいた頃津島で港から莫大な利益が上がる事を承知していました。だからこそ彼は官職よりも港の権益を優先した訳です。そこから京に運ばれてきて都人の間に流行り初めていた「茶の湯」に彼は注目しました。これを戦に使う事を彼は考えたのです。

戦で勝って得た領土も敵方の財宝も限りのあるものであり、論功で家臣に与えるのは不公平感がどうしても出てしまうのが現実でした。そこで信長が考えたのは領土の上に恩賞として「茶の湯を開く」許可を与える事であり、領土一国より「茶の湯」のほうが大切だと家臣に思わせる事です。これならば限りなどありません。いくらでも茶釜は作れます。

信長は堺から千利休を呼び茶頭に据えました。この茶頭という身分は織田家の家老よりも重く、この事で茶の湯の地位を飛躍的に上げました。信長の茶会に呼ばれる武将がその功名心を満足させられる仕組みを作った訳です。

将軍の権力の利用

武家の棟梁である征夷大将軍の権威は戦国時代に入って下降していましたが、織田信長は将軍の権威を取り戻す為と称して二条城完成後に畿内の大名に将軍にあいさつに来るように要求します。信長の本音は将軍へのあいさつなどどうでもいい訳で将軍を支えている自分にあいさつに来いと言う意味です。しかし出される書状には将軍名が記載されている訳であり、これを無視すると朝敵扱いになります。信長は将軍の権威を利用して戦をせずに自分の配下を増やしたいのが本心であり多くの大名はこれを拒絶する事は困難でした。そんな中で何度この要求を出されても拒絶したのが越前の朝倉義景であった為に信長は朝倉攻めを決断しました。

これが信長が犯した最大の作戦ミスであり、やがては信長を絶体絶命のピンチに追い込む原因になりました。彼のこの決断は上洛の苦労もそれまで積み重ねてきた勝利も全て吹き飛ばし、織田家の存続も信長の命も風前の灯になります。

浅井と朝倉との関係

織田信長の決定的な間違いは織田家と同盟を組んでいた近江の浅井長政と越前の朝倉義景との関係を甘く見ていた事にありました。

浅井と朝倉との関係は信長との同盟よりもはるかに古く父祖代々の良好なつながりの上に成り立っていました。織田と浅井の同盟の際にも「朝倉を攻める時には必ず浅井に相談せよ」とあり、信長は今回浅井に相談せずに朝倉攻めを決めた訳です。浅井長政が怒ったのは当然であり、浅井長政の妻が信長の妹の市であったとしても到底許される事ではありませんでした。信長が浅井に連絡したのは朝倉を攻めるのに浅井も参戦しろという命令書であり、決して相談などではありません。浅井長政はこれを同盟の放棄であると考えて織田信長が朝倉を攻撃した場合は信長と戦う決意をしました。

これは地理的に見ても信長は絶対に勝てません。越前に攻め込んだ信長を近江の浅井勢が攻撃するという事は前後から挟み撃ちになります。横には琵琶湖、上には海しか無く逃げる事は絶対に不可能です。この朝倉攻めには徳川家康も参戦しており背後から浅井勢が攻め込めば織田、徳川両軍とも全滅するのは確実です。

織田信長は絶体絶命であり、生まれて初めて悲惨な負け戦を経験する事になりますが、それは悲惨な負け戦の序章にしか過ぎず、以降究極の屈辱を味わい、数年間は勝ちの全く無い戦を経験する事になりました。その始まりがこの朝倉攻めです。

あとがき

上洛するまでの織田信長は上り調子であり、すべてがうまくいっていました。しかしこの朝倉攻めを皮切りに地獄の数年間を味わう事になります。信長は自分でも気付かないうちに敵をたくさん作りすぎていました。

室町幕府15代将軍足利義昭はその筆頭です。自分を将軍職に付けてくれたのは信長ですが政治はすべて信長が仕切っており、義昭は二条城に閉じ込められた状態です。足利義昭はかなりの策略家であり、筆まめでもあった為に、信長に隠れて各地の有力大名に信長征伐の書状を送っていました。この書状が信長の上洛に反感を持っていた各地の戦国大名を喜ばせた事は間違いが無いでしょう。

次に朝廷です。古くからのしきたりを無視し官位を拒絶する信長に反感を持っていた事は確実です。朝廷の仕事とは古来からのしきたりを実行する事であり、天皇陛下から与えられる官位を拒絶するものなど逆賊でしかありません。朝廷から見た武士などは自分たちより確実に下であり、そんな連中が逆らっているのが面白い筈がありません。信長は確かに朝廷には尽くしていました。将軍と朝廷とを信長が同じ目で見た事は一度も無く朝廷を信長が蔑ろにした事はありません。しかし朝廷からの官位も受けずに勝手に政治を行う事など許される筈も無く信長の力が大きくなる事を朝廷が恐れていたのは間違いないと私は思います。

これは神社仏閣も全く同じ思いであり、自分たちの作った関所を次々と壊していく信長は許せぬ存在でした。信長は浄土真宗の信仰は認めていましたが門徒一向宗が起こす一向一揆は厳罰にしていました。当時の浄土真宗の総本山は大阪の石山本願寺であり徐々に信長との間に緊張感が生まれつつありました。浅井、朝倉の連合軍が信長を破ると石山本願寺もすぐに参戦します。当時の浄土真宗の信者は1000万人以上いたと考えられており、これを敵に回して信長が勝てる筈もありません。比叡山高野山も信長の事は良く思っておらず彼らもまた信長を攻撃し始めます。

信長の敵はすべての既得権益であると以前に私が書いた意味がお解りでしょうか?

信長が尾張や美濃にいる分には全く問題が無かったのですが、都に来て政治を行うとこうして何から何まで敵になってしまいます。この現実に一番気付いていなかったのが当の織田信長であり、すべてにおいて信長の政策は甘かったのが真実でしょう。

天下はまだ何も収まっていません。自分が上洛した事によって収まったと勘違いしているのは信長だけです。この厳しい現実を彼はその後嫌というほど思い知る事になります。京に上るだけで天下が取れるのならずっと京にいる将軍の権威が落ちていく筈もありません。京に上ってからが本当の勝負であり、信長は今後死ぬまでそれと闘い続ける事になります。

さて、次回のブログですが「織田信長の軌跡(五)小豆袋」を記述したいと考えています。全滅の危機にあった織田、徳川の両軍を救ったのはたった一袋の小豆袋でした。この事も一説ではありますが、私はその説で信長の動きを説明していきたいと考えています。と言うのはこの「小豆袋」で信長軍は取り敢えずは絶滅を免れたというだけであり、大局的にはこんなもので信長は全く救われていません。それどころかその後の信長の行為によって今回は書かなかった最も信長にとって恐ろしい敵がいよいよ動き始めます。

鬼になった信長が取った行為は当時の常識から考えても全く常識外の出来事であり、その行為によって絶対に信長が怒らせたくなかった相手がとうとう信長の前に立ちふさがります。次回も宜しくお願い致します。