須佐之男の戦国ブログ

織田信長の軌跡(五)小豆袋

前書き

浅井長政織田信長との同盟の約束を反故にした事に対する怒りに織田信長は全く気付かずに越前の朝倉義景攻めを決定して、元亀元年(1570年)4月20日信長勢は浜松の徳川勢とともに出陣しました。そしてそのまま越前深くの金ケ崎まで朝倉勢に攻めかかりました。

ここまでは歴史書に書かれている通りであり真実の歴史です。それに対して今回の「小豆袋」の話は一説であり証拠は何もありません。しかしこの時点で何らかの方法で織田信長浅井長政の本心に気付いた事は確実で、もしこの浅井勢の動きに気付いていなければ確実に織田、徳川両軍勢とも壊滅的な打撃を受けています。従って今回のブログはこの「小豆袋」の説を元に記述していきたいと思います。宜しくお願い致します。

小谷城にいた信長の妹の市

織田信長がこの朝倉攻めでの金ケ崎にいた時点でかなり苛立っていた事は確実です。

朝倉勢は信長が考えていたよりもずっと強く、徳川家康の手を借りても全く進展せずに信長は浅井長政の援軍が来ない事に対して不信感を持ち始めていました。

一方で浅井長政の本城である近江の小谷城浅井長政の妻として信長の妹の市はいた訳ですが夫であり近江の国主である浅井長政織田信長を攻撃する事を知らされて、浅井勢が戦の準備を始めても厳重に警備されており、兄である信長に使者を送って長政の裏切りを伝える事も、書状を信長に送る事も絶対に無理な状況でした。

この状況で市は信長の好物であった小豆を一袋信長の陣営に送ります。これなら何とか可能であった訳で、この小豆袋は両端を紐で結ばれた袋の中に小豆が入ったものでした。袋を運ぶ使者には信長に「お菓子にして召し上がる様に」とだけ告げていました。

だからこそ、この小豆袋はスムーズに信長陣営に届けられた訳です。

信長の反応

この袋を見た信長はすぐに全部隊の重臣を呼び集めます。そこで信長は浅井長政が裏切ってこちらに向かって侵攻中である事を全ての重臣に告げました。

両端を紐で縛られた小豆袋、片方の紐は朝倉勢でありもう片方の紐が浅井勢である事、このまま朝倉勢を追って越前深く攻め込めば、袋の中の小豆と同様にまさに袋の中のネズミに織田、徳川の両軍勢がなってしまい、袋の中の小豆が一粒も外に出る事は無いのと同様に一兵残らず全滅する事を悟ったという話です。

とにかく生き残る為には浅井勢が到着するまでに逃げるしか無く、信長は全軍の退却をその場で命じます。この時にしんがりとなって最後までその地に留まり、出来るだけ追手から信長を逃がす役割を買って出たのが木下藤吉郎秀吉であり、織田信長と一緒になって安全に信長を逃がす役割を買って出たのが明智光秀です。すぐさま信長をはじめとする織田軍勢はその場から消え退却を開始しました。

しかし慌てて逃げる織田軍勢と全く対照的であったのが徳川家康の率いる三河勢であり、家康は秀吉に三河勢500人を預けて悠々と退却しています。信長にとってこんな負け戦は初めてであり、浅井勢のいない琵琶湖の西、朽木谷を通って京へ10日間以上にわたって必死の退却が行われた訳です。

織田、徳川両軍勢は総崩れになり「信長が敗れた」との噂はあっという間に広がりました。

京で信長が見たもの

退却し始めた時に信長が考えていた事は自分が生きて京に帰って軍勢を立て直して改めて浅井、朝倉と闘う事であったのは間違い無いと私は考えています。尾張の統一でも美濃での戦でも局地戦で信長勢が負ける事は決して珍しい事では無く、信長はその都度、軍勢を立て直して戦ってきた訳であり、今回の負け戦もすぐに取り戻せると考えていたと思われます。しかし京に近付くにつれてそんな願望は幻でしか無かった事を信長は思い知らされます。「信長が負けた」という情報は信長の帰還よりもはるかに早く京に伝わっており、これまで信長に従っていた武将、僧侶は次々と信長を裏切り殆ど味方がいない状況に変わっていました。信長は京に入る手前の比叡山で肩を鉄砲で狙撃され、京に戻った途端に完全に信長に敵対した将軍足利義昭の軍勢に都から追い払われます。信長はこれまでの自分が甘かった事を思い知らされ美濃の岐阜城に撤退を余儀なくされます。

信長が京に戻って見たものは人の裏切りによる絶望感でしかありませんでした。

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軍勢を立て直して再び京へ

信長の性格を鬼に変えたのは戦では無くこの人の心の変わり方です。やがて続々と家臣たちも美濃に戻り軍勢を立て直すと信長は再び京に向かって侵攻を開始しました。京に戻った信長は比叡山延暦寺に立てこもった浅井、朝倉両軍勢の引き渡しを何度も延暦寺に求めますが延暦寺は全くそれに応じずに雪解けを待って浅井、朝倉両軍勢を国元に返し、それを追う織田勢を僧兵は攻撃します。

激昂した信長は比叡山延暦寺に対して今後一切戦には延暦寺は関わらない事を誓わせ自分への忠誠を求めましたが、延暦寺はこれに全く応じず石山本願寺も信長に対して挙兵しました。都でも信長が将軍に合う事も全て断られ朝廷内への出入りも規制されました。信長は延暦寺に対して約束を守らなければ根本中堂、山王二十一社を全て焼き払い僧兵もろとも皆殺しにする旨を伝えましたが延暦寺はこれを無視した為に、元亀2年(1571年)9月12日に全軍に延暦寺への攻撃命令を出し比叡山の焼き討ちを決行します。

「僧侶からその家族、女、子供に至るまで寺に繋がるものは皆殺しにせよ」との命令で日本の歴史上初めての民間人の大量虐殺が行われ、信長の肩を狙撃した者は三条河原で竹ののこぎりによって通行する一般庶民に一引きずつさせて七日間かけて徐々に殺していくという惨たらしい処刑が実行されました。こんな事は以前の信長の政策とは全く違う事であり、織田信長は人から鬼へと変わった訳です。自分の義理の弟である浅井長政の裏切りによる越前からの撤退後完全に信長は変わりました。

動き出す武田信玄

織田信長がその生涯を通じて絶対に戦いたくない武将が二人いました。一人は越後の上杉謙信であり、もう一人は甲斐の武田信玄です。いずれも織田信長には強すぎる相手でした。

その為に信長はこの二人に対しては惜しげも無く南蛮渡来の献上品を送り続け、何度も同盟を結び直してきました。特に上洛への意欲が強く、尾張や美濃とも近い武田信玄とは信長の嫡男と信玄の娘との婚約を成立させて同盟を強化してきました。ところが今回の比叡山延暦寺の焼き討ちは完全にこの二人を怒らせる結果になりました。

武田信玄の信玄とは仏教から与えられた法名であり、上杉謙信の謙信も同じく法名です。仏教の聖地である比叡山を焼き、仏に仕える僧侶を皆殺しにした信長のこの行為をこの二人が許す筈も無く、当時に駿河侵攻中であった武田信玄は将軍の仲介で初めて上杉謙信と同盟を組み、駿河からそのまま遠江三河を狙ってそのまま尾張、美濃に攻め込む構えを見せました。

南からは石山本願寺が北からは浅井、朝倉勢が、そして京では将軍足利義昭が信長に向かって挙兵し、東から武田信玄が攻め上って来るという、後に第一次信長包囲網と呼ばれる体制が完全に出来上がった訳であり、織田信長の味方は浜松城にいる徳川家康だけになってしまった訳です。

織田信長に逃げる場所はどこにも無く、軍勢を一点に集中して戦う事も出来ず、信長の周囲は敵だらけです。鬼に変わった信長を待っていたのはこの厳しい試練であり、絶命の危機でした。既得権益と闘う事いう事はすべてを敵にする事であり織田信長はその難しさをこの時に痛感したのは間違いないと私は考えています。

あとがき

前回のブログで私が織田信長の朝倉攻めが信長の完全な作戦ミスであると書いた意味を皆様には解って頂けたでしょうか?

全てのきっかけはこの「朝倉攻め」から始まっており、その為に織田信長は一度手にした都を追われ、都に戻って戦を始めた途端に周囲を敵に完全に囲まれる状況に一変した訳です。比叡山延暦寺の存在は他の戦国大名から見ても厄介なものであり、武装し、鉄砲まで持っていた僧兵を快く思っている戦国武将など一人もいませんでした。

ところが信長が実力行使した途端に、殆どすべての戦国武将が敵になり、完全に織田信長を囲む体制に入ったのが現実です。

この比叡山への信長の所業についてヨーロッパから来た宣教師であったルイス フロイスの書簡には

「神の火が悪人どもを焼き尽くした」 と書かれており日本の既得権益に苦しめられていた宣教師から見た比叡山の焼き討ちは全く違った目線であった事が良く解ります。

しかし日本人の戦国武将である織田信長はこの事で完全に窮地に追い込まれました。

次回のブログは「織田信長の軌跡(六)第一次信長包囲網(1)」として今回の続きを記述するつもりですが次回のブログの中心は武田信玄になると思います。武田信玄は晩年にこの信長の上洛後の動きが許せず上洛を決意し実行します。その動きは今川義元などとは比較にならないほど複雑で巧妙であり、ついに浜松城の西側の三方ヶ原で織田、徳川の連合軍と激突します。この「三方ヶ原の戦い」で武田信玄は織田、徳川の連合軍を蹴散らしますが、この敗戦で大きくその性格を変えたのは徳川家康でした。

若い頃の家康は決して「鳴くまで待とう時鳥」と呼ばれる様な気の長い性格では無く、短気な戦国大名でした。この戦で彼は「待てなかった」が為に大変な目に合い、以降は待つ事の重要さを骨身にしみて覚える事になります。そのあたりの事も私の知る限り出来るだけ詳しく書いてみたいと考えています。宜しくお願い致します。