須佐之男の戦国ブログ

信長と道三

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前書き

今回のブログでは織田信長と斉藤道三が聖徳寺で対談した事を中心にその前後の情勢を記述したいと思いますが、その前に皆様の中にあるかもしれない織田信長に対する誤解を一つ解いていきたいと思います。

信長が家中で「大うつけ」と呼ばれていた事は事実ですがこれを現在の不良少年像と重ねる事は全くのでたらめです。信長公記に出てくる若き日の信長の姿を少し引用してみましょう。

「信長公は十六、七、八歳になるまで別に遊び事は無く、馬を朝、夕にお稽古、また三月から九月までは川に入って水泳をなさるが水泳は巧みであった、またその折に竹やりの叩き合いを御覧になり『とにかく竹やりは短くあっては具合が悪い』と仰せになって三間柄、または三間半柄の槍にされた。(中略)市川大介をお召しになっては弓のお稽古、橋本一巴をお召しになっては鉄砲のお稽古、平田三位をいつも御近くにお召しになって兵法のお稽古、または鷹狩もなさった」

とあり青年期の信長が武将として非常に勉強熱心であり遊び事にわき目も降らずに毎日を鍛錬していた事が覗える、信長は非常にまじめな勉強家でした。

では何故「大うつけ」と呼ばれていたのか?  それは日頃のふるまいです。

「町を御通りの時、人目をも御憚り無く、くり、柿は申すに及ばず、瓜をかぶりくびになされ、町中にて、餅をほおばり、人により罹り、人の肩につらさがりてより外に、御ありきなく候」

と同じ信長公記に書かれており彼が次期国主としてふさわしいとはとても思えない奇行を取っていた事が解ります。

この「大うつけ」の彼の奇行を決定的にしたのが信長が17歳の時に父信秀の急死による万松寺での父の葬儀の場でした。

喪主である筈の信長は読経が始まってもなかなか現れず、現れたと思ったらその恰好は鷹狩に行く時の服装であり、朱の長刀を挿したまま焼香台に上がると抹香を鷲づかみにして遺体に叩きつけました。

この瞬間に家臣の心は完全に冷えました。守役の平手政秀は絶望して切腹しました。信長は政秀の死を惜しみ政秀寺を建立しましたが一向にその奇行は改めていません。彼が父親の葬儀で見せたこの奇行には諸説あり私も思うところはありますがあえてそれには触れません。天才の行動に凡人が理屈を並べ立てても所詮は無駄な事であります。

美濃の斉藤道三が信長との面談を希望してきたのはその葬儀から間もない頃であり織田家中が次期国主の跡目争いが始まりかけている頃でした。

信長の考え

信長と帰蝶が夫婦になったのは信長が14歳の頃であり3年余りもの期間で道三入道から面談の申し込みがあった事は一度も無く信長が道三に会いに行った事もありません。

それがいきなりの面談の申し入れであり、父信秀の死後である事から考えても確実に裏がある事は誰が考えても解ります。

かと言ってこれを断ったらどうなるでしょうか?  美濃と尾張との同盟は破棄されて最悪、跡目争いで家中が割れている尾張へ美濃の軍勢が攻め込んでくる覚悟をしなければならず確実に織田家は滅ぼされます。「美濃の蝮」と言われる道三の策略は年を取っても巧みであり織田家が絶対に断れないこのタイミングをついて面談を申し込んできた訳でした。

それでは信長はどうすれば良いのか?  答えは一つしかありません。この面談を成功させて無事に尾張に帰って来る事であり面談する事によって道三と自分との関係を改善して味方に引き込む事だけです。

信長はその為には素の自分を道三入道に見せる事が大切だと考えてこの面談について特に準備もしませんでした。道三への土産を考えたくらいで家中の心配をよそに通常の暮らしを続けて面談の日を待ちました。

富田聖徳寺での面談

さて、そうしている間に具体的に面談する場所と日時が決定しました。場所は富田にある聖徳寺、日時は1549(天文18)年4月です。

当日になり信長は船で起湊まで行きそこから聖徳寺に向かいました。一足早く聖徳寺に到着した斉藤道三は家臣を連れて富田の町屋を借りて信長の素の姿を見てやろうと試みました。

やがて、信長の軍勢が現れ信長が現れました。その時の信長の格好は評判通りの出立ちで、片肌脱いで腰に荒縄を幾重にも巻き、火打石や瓢箪などをぶら下げて、馬に横乗りした異様なものでありました。道三の家臣は「あれが評判の大うつけか」と言って笑いだしました。しかし道三は笑いません。信長の軍勢の中に斉藤家の軍勢ではあり得ないものを見つけたからであり、こんなものを見るのは道三の長い人生の中で初めてでした。

それは500丁にも及ぶ鉄砲隊です。この当時の鉄砲は極めて高価であり、しかも実際の戦では役に立つとは言い難く鉄砲隊を持つ軍勢などありませんでした。それが500人もの軍勢となり目の前を通過していくのをさすがに道三は見逃しませんでした。

しかも信長の軍勢は聖徳寺につくとすぐに四方に屏風を立てて、その中で信長は髪を切りひげを剃り、髷を結い直して正装した涼しげな好男子となり、一人で対面場所に堂々と現れました。

この対面は形式上舅である道三の立場のほうが上であり普通は信長が挨拶をして面談が始まります。ところが到着した信長は立ったまま柱にもたれかかりあらぬ方向を向いて道三を無視しました。見かねた斉藤家の家臣が「こちらが斉藤山城守である」と言ったのに対して信長は道三を見ようともせず「で、あるか」と一言呟いただけで全くの無視です。初対面で信長は「美濃の蝮」と恐れられている道三を小者扱いして見せました。

この面談は最後までこの調子で極めて短時間で終了しました。その夜、道三の家臣が道三に「やはり信長はうつけでしたね」と尋ねると道三は「残念だが我が息子は皆あのうつけの城の前に馬をつなぐ事になるだろう」と信長に完敗した事を認めています。たった一人で対面場に現れる大胆不敵さ、会場に着くなり身なりを整えて現れ巧みに500丁の鉄砲隊を配備して万一に備えた神経の細やかさと歴戦の強者である自分を小者扱いする事によって優位な面談に導こうとする駆け引きの上手さに道三は初めて自分以上の存在としての信長を見た訳であり、これが信長が戦国武将として認められた初めての瞬間でした。道三は信長に魅入られてしまった訳でありここから本当の美濃と尾張との同盟が始まりました。

斉藤道三の最期

道三はこの面談以降全面的にに信長をバックアップする様になります。信長も道三に盛んに文を送るようになり、この面談以降初めて「舅殿、婿殿」の関係が成り立つ様になりました。

ところがこの関係を一番面白くなく感じたのが道三から家督を継いだ斉藤義龍であり1555(弘治元年)道三に向かって挙兵します。理由はいくつかありますが実の息子より娘婿の信長を可愛がる道三を許せなかったのが最大の理由でしょう。翌1556年にこの親子の両軍は長良川の戦いで激突しますが道三のこれまでの成り上がり方から道三に付く武将が殆どいなかったのが現実で数の力で一方的に道三軍は敗れて道三は打ち取られます。この戦いが始まるとの一報を聞いた信長は自ら先頭に立ち援軍を向けましたが間に合わず道三は打ち取られてしまいました。

自分の最後を悟った道三は家臣に信長に向けての書状を渡します。この書状こそが自分の死後は美濃一国を信長に任せるという一国譲り渡し状であり道三の遺言でした。後にこれを読んだ信長は号泣したという話です。しかしこの道三の遺言こそが信長が美濃を攻める正当な理由になった事は確かであり数年後に美濃攻めが開始されます。

但し、現実問題として尾張の信長にとって一番脅威であったのは度々領土内に侵入し入洛の勢いを見せる今川義元であり、尾張の兵力の十倍以上の兵力を持つ今川軍は信長にとって最重要問題でした。織田信長はこの時点ではまだ一人前の戦国武将とはいい難い存在であり注目され始めるのはこの今川義元との桶狭間の戦い以降になります。

あとがき

ここまでに記述した事が道三と信長との面談であり道三の最期まででありますが皆様はどう感じられますでしょうか?

成り上がりの戦国大名の典型例ともいえる斉藤道三が織田信長と直接出会った瞬間から変わってしまった事が良く解ると思います。道三が見た17歳の信長はそれだけの魅力を持つ青年であった訳であり、だからこそ彼はこの時代の天下取りレースのトップをやがては走る事になります。

さて次回のブログですが目を移して強豪が犇めいていた関東から北陸を見てみたいと思います。戦国時代に信長が台頭してくる前はこの関東の豪族が最も優位であり武力でもその領土の広さでも他の地域よりも一歩先んじていました。

次回はその中から甲斐の「武田信玄」を記述したいと思います。私が最初のブログで天才の一人に挙げた人物です。この武田信玄のどこが他の武将と比べて異質であり信玄の残した業績とはいったい何であるのかも出来るだけ詳しく述べてみたいと思います。

宜しくお願い致します。

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マムシと言われた男

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前書き

この時代のヒーローの特徴としてその出自がはっきりしない人間が非常に多い。出世の象徴となり天下を治めた豊臣秀吉が農民であったというのも一つの通説にすらすぎません。

真実の秀吉の出自については「全く解らない」としか言いようが無く、尾張中村の百姓であったというのは一説にしか過ぎません。しかしそうであるからと言って豊臣秀吉の価値が下がるものでは全く無く、どこから出てきたのかも解らない最下層の人間が出世を重ねて上り詰めて正一位関白となり太閤として時代を彩ったのは間違いの無い事実です。正一位とは帝である天皇陛下から見た家来の順位であり正一位天皇陛下の次である事を意味します。

この秀吉の昇進は日本のみならず世界史上の奇跡であり、ここまで這い上がった人間を世界史上私は一人も知りません。「蒼き狼」と呼ばれたチンギスハーンでも出自は小部族の長からの出発でありナポレオンも下士官ではありましたが最初から貴族階級です。アドルフヒトラーも同じく第一次大戦時にはすでに軍人でありましたし、政治に何の関係も無い最下層の人間が帝の次の位まで上り詰めたなどという歴史は豊臣秀吉ただ一人です。

この出自をさらに解りにくくしているのが何度も名前を変えている事です。木下藤吉郎が秀吉の元の名前であると考えるのは間違いであり彼は姓など持てる身分の出身ではなく藤吉郎から始まったと仮定するのが順当でしょう。彼は早くから武士を志して今川義元の家臣である松下嘉平に雇われました。松下家の家中で頭角を現した藤吉郎は姓を名乗ることを許されて「松下様の木の下に」という事で木下藤吉郎を名乗りました。その後、織田信長に仕えて城持ち大名にまで出世した秀吉は信長から改名を許されます。その折に織田家の重臣であった丹羽長秀柴田勝家の両名から一字ずつ頂き「羽柴秀吉」を名乗りました。この人の心に巧みに入り込み自分の安全を保ちつつ出世していくというのが秀吉のずば抜けた才能であり初めて城持ち大名となった際にはそれまで「今浜」と呼ばれていた地域を信長の「長」をもらって「長浜」と改めておりこれが秀吉の出世術であった訳です。

秀吉だけでは無く前回のブログでも触れた上杉謙信などは基の名は「長尾景虎」であり「越後の虎」と呼ばれ恐れられました。その後景虎のあまりの戦の上手さから関東管領上杉憲政に自分の養子になって関東管領を継いでくれと頼まれて上杉政虎と改名、その後に将軍足利義輝と対面して「輝」の字を貰って上杉輝虎、謙信は法名であり姓も名も何度も変更しています。しかしこの斉藤道三ほどは誰も名前を変えていませんし、変える理由も全く違います。道三は改名する事と謀略がセットになっておりあらゆる手を使って美濃の国主の座を手に入れました。

斉藤道三の履歴

断っておきますがこれも一つの通説にしか過ぎません。戦後に出された道三の国盗り物語は親子二代で成し遂げたものであるとの説のほうが現在は有力であり私の述べる通説のほうが明らかに少数派です。この親子二代説は一介の油売りが一代で戦国大名にのし上がる事の時間的な無理さから出された説ですが私から見ればこの説だと親子二代が重なって謀略を続ける必要があり、もっと無理が出てくる、国持大名に成って以降の道三の経済政策は明らかに商人の目線で物事を判断しており自分自身がが商人を経験していないととても無理である事や息子の裏切りによる道三の死も親子二代説では説明がつかないところから私は一代で成り上がった通説を支持しています。ではその中身を見ていきましょう。

幼名が峰丸であった道三は11歳の春に京都妙覚寺で得度を受け法蓮房と名を変えて僧侶になります。しかし間も無く還俗して松波庄五郎と名乗り油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとって油商人となり山崎屋と称して油の行商人となります。この油売りで庄五郎は非凡な才能を発揮します。油を注ぐ時に漏斗を使わずに一文銭を取り出して「油はすべてこの一文銭の穴を通して見せます、もし油が他にかかったらお代は一切頂きません」とパフォーマンスをやり油の行商として有名になっていきます。ところがある日油を買った矢野という土岐家の侍から「見事な腕だが所詮商人の業だ、この力を武芸につぎ込めば立派になれるのにもったいない事だ」と言われたのを契機に一念発起して油商人をやめて槍と鉄砲の練習を始めて武芸の達人になります。昔の僧侶時代の縁故を頼って美濃守護土岐氏守護代の長井長弘家臣となり家臣西村氏の家名をついで西村勘九郎正利と名乗ります。勘九郎はその武芸と才覚で次第に頭角を現わし、土岐守護の次男である土岐頼芸の信頼を得て家督争いで頼芸が兄政頼に敗れると政頼を革手城に急襲して越前へ追いやり土岐頼芸の信頼を不動のものにします。次には同じく土岐頼芸の信頼の厚かった長井長弘の除去を画策し長井長弘を不行跡のかどで殺害し、長井新九郎規秀を名乗ります。その5年後に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗り美濃守護代として稲葉山城の大改修を行っています。そして土岐頼満を毒殺してその兄土岐頼芸と対立し土岐頼芸尾張に追放して実質的な美濃の国主へと這い上がりました。追放された土岐頼芸織田信秀を頼り織田軍が大規模な稲葉山城攻めを行うと巧みな籠城戦で織田軍を壊滅寸前まで叩き潰して戦に勝利しています。

さて皆様、この間に彼は何度名前を変え立場を変えているでしょうか?  数える必要はありません、私だって解らないくらいに彼の業績は複雑であり退屈な文章を読み直して頂く事は望んでおりません。とにかく彼の人生は複雑怪奇であり、自分の邪魔になる相手はライバルであれ主君であれ問答無用に殺しています。この相手かまわずに噛みつく道三の鋭さが彼を「美濃の蝮」と呼ばせ周囲に脅威を与えるに足りえる存在であった事は確かでありこの時代にふさわしい戦国大名です。美濃一国を完全に手に入れた道三は駿河今川義元が岡崎にまで手を伸ばし上洛の勢いを見せると即座に尾張織田家と手を結び、娘の帰蝶を信秀の長男、信長に嫁がせて自国の領土を防衛して見せました。美濃と尾張が同盟する事で今川義元の上洛の道筋を完全に塞いでしまった訳であり見事な政治手腕をここでも発揮しました。

道三の経済政策

血も涙もないこの策略を実行しつつ道三は自国内の経済の発展には真剣な努力を重ね自国内の独占企業を排除して認可制でいつでも庶民が商売を始められるような自由経済の礎を作りました。他国から自国に商売を移した商人の税金の大幅な免除などの誘致活動も盛んに行い美濃の市は東海地方屈指の好況に見舞われて経済活動は飛躍的に高まりました。京の帝や将軍には惜しげもなく貢物を送り、自分の子供を嫁がせて中央との安定を図り、その事によって自国に都の文化を取り込み治安を安定させてますます美濃の庶民の暮らしを安定させました。

決して道三は武力だけでのし上がった訳では無く、経済面においても巧みな手腕を発揮して乱れた治安を回復し民衆の信頼を得ていた訳であり市場での税収が上がると百姓からの年貢の負担を減らしてすべての美濃国内の庶民の生活の向上に努めた訳であり、美濃国内での百姓一揆は激減して庶民は平和を取り戻しました。

信長に娘を嫁がせた本当の理由

それまで大切にしていた娘の帰蝶を織田信長に嫁がせたのは今川義元の動きだけではありません。

道三にとって直接的な敵として一番警戒していたのが隣国である尾張織田信秀でありました。その息子であり後継者である信長が「うつけ」と呼ばれる戯けものであり、父の信秀と息子の信長の関係がうまくいっていない事は隣国である美濃の道三にも当然情報は入っていました。帰蝶を嫁がせた最大の理由がこれであり、信秀の死後に織田家で跡目争いが起こった時に自分が信長側に介入し、その後信長を殺せば尾張一国が実質的に手に入る訳であり、道三はその為にわざわざそれまで敵対していた織田家と親戚になる事を試みました。

信秀が急死してそれが実現に近づくと早速動き始め娘婿と面談がしたいと申し出て信長との面会を望み現在の愛知県一宮市の正徳寺でこの面談を実現させています。勿論信長をその場で打ち取る事も計画していた訳でありやはり謀略でのし上がってきた道三入道はそのマムシの牙を今度は娘婿である信長に向けた訳であります。

ところが実際の面談で織田信長は想像を超えた動きを見せてこの道三の心境は一変いたします。信長が「うつけ」などでは無くまぎれもない「本物」であると理解したのは道三が最初であり信長の最初の理解者は間違い無く道三です。それが原因となり道三は実の息子に暗殺される運命になるのですが次回はこれを詳しく「信長と道三」で記述してみたいと思います。

あとがき

「姓を変える、名前を変える」という事が当たり前だった戦国時代でもこの斉藤道三の手法は前書きで書いた豊臣秀吉上杉謙信とはかなり異質である事がお解り頂けたでしょうか?

この道三の改名は確実に計算された改名であり、姓名を変えることによってそれまで実現不可能であった事を可能にしており、姓名をえる度に別人になっていると言っても過言では無いと思います。

これが一介の油売りから戦国大名に上り詰めた斉藤道三の生き方でありひたすら上を目指して駆け上がっていく戦国大名の典型例です。斉藤道三は自分も悲惨な最後を迎える事になりますが彼の凄いところは最後まで守りの姿勢を見せずに一生を攻めの人生にかけ、なおかつ自分の心に正直に動いた事であり動く際に起きるリスクを全く考えていない部分でありましょう。

しかし室町時代の通常の守護大名とは異なり道三の政治は庶民生活に直結したものであり非常に庶民的な大名でもあった訳です。

次回のブログでまたお会いしましょう。ありがとうございました。

 

 

 

 

 

須佐之男の戦国ブログ

一回 何故戦国時代なのか?

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前書き

今回、ブログを立ち上げるのに何故戦国時代なのか? と疑問を持たれる皆様も多いと思いますので初回はその理由と今後の方向性について述べていきたいと思います。

日本の動乱期というのは長い歴史の中で何度もあった訳であり、戦国時代以降も幕末、終戦後と確実に国家の危機的な動乱期を迎えているのが真実で、それに比べれば戦国時代は確実に日本の国内問題であった訳で日本が国家としての危機を迎えた訳でもありません。しかし古くからの権威の崩壊と秩序の乱れ、現在の日本が国際的に称賛されている儀礼や道徳といったものが根こそぎ崩れ落ちて日本国内が何十もの小国に分かれてしまった時代はこの戦国時代以外にはありません。

日本が海外に誇る天皇陛下さえこの時代には完全に形だけのものになり何の力もなくなりました。日本の歴史上で国内の力だけで天皇の存続の危機を迎えたのはこの時代だけであり東大寺の大仏は焼かれ、京の街は荒れ果てて将軍の権威も完全に失墜して全く先の読めない世の中が100年以上続いた訳でありこんな時代は日本の歴史上で戦国時代しかありません。ヨーロッパの人間が日本に入ってきたのも、ヨーロッパの先進文化が日本国内に流入したのもこの時代からであり、日本は歴史上初めて「世界」と「日本」の違いを感じた貴重な時代であり以降の日本の衣、食、住すべてに影響を与えました。

これが私が戦国ブログを書く一つの理由です。

戦国時代とは

幕末であれ終戦時であれ日本の他の動乱期にはそのはじめと終わりに明確な時期がありおおよそでもいつからいつまでと定義できると思います。

ところがこの戦国時代にははじめと終わりを定義できないのが特徴です。室町時代の末期から江戸時代の初期までいう定義しかできずに日本国内の人間の意志だけで恐ろしく長い間、日本国内は荒れ果てました。1467年に京都で発生した応仁の乱がきっかけであったのは間違いの無い事実ですがこれは1477年に終了しており、たった10年間の出来事です。しかしこの10年間に日本各地で革命的なクーデターが頻発し、その多くが成功してしまい日本がそれまで維持していた秩序は完全に崩壊しました。

日本の室町時代までの組織図は権威の象徴として天皇陛下が京都におられて陛下から任命された征夷大将軍が実質的な政治を行い、将軍の下には日本各地を任された各地区の管領職が数名おりその下に領土を収める守護大名がいた訳ですがまずはこの守護大名から崩れていきました。応仁の乱に参加する為に京都に上った守護大名のいない祖国で一向一揆をはじめとする動乱が起きれば抑える力が不在でありいくらでも拡大してしまいます。留守を務める守護代がこれらの勢力と手を握れば領土を取ったのと同じことであり守護大名が帰る場所すら無くなります。この方法で実質的に守護大名の地位を手に入れた者は謀反を起こしたのと同じであり彼を殺して国主の座を手に入れるのには何のためらいも必要ありません。

さらに困ったことにこの流れが広まりだしたのが当時の首都である京都周辺からであり、その原因は応仁の乱が将軍の跡目争いから起こってしまった事であるのは間違いなくそれが東は関東から北陸、西は中国地方にまであっという間に広がってしまったという大動乱時代に突入してしまって納まりがつかない状況に変わり果てました。

天皇陛下も将軍の存在も、もはや形だけのものになり国主が自分の領土に対しての法律を勝手に決める事が当たり前になってしまいました。これは日本という一つの国家とは絶対に呼べないと思います。

各領国が明らかに独立国家であり君主はその国主になります。国を治めた実力者は財政に困る皇室や将軍に賄賂を平気で送り正式な官職を手に入れます。

この状態が百数十年続いた日本を現在の皆様は信じられますか?

しかし現実に日本が体験した歴史はこれであり、この時代を乗り越えて平和な現在があるのが事実です。日本人は最初から礼儀正しく思いやりのある民族なのでは決して無く血みどろの歴史を戦い抜いて現在の道徳観にたどり着いただけです。そういう意味でもこの百数十年間の戦国時代は日本の長い歴史の中でも特別です。

時代を彩ったヒーローたち

この時代を一番私が取り上げたかったのはここです。この百数十年間の日本はスーパースターの塊でした。戦国大名の出現の元になった毛利元就も三本の矢の話も私は今後全く取り上げるつもりはありません。何故なら彼の存在などはこの時代の他のスーパースターから比べれば明らかに小者であり取るに足らないからです。しかもあの三本の矢は明らかに失敗した政策であり、バラバラにされて解体しました。そんな話を皆様にしても何の参考にもなりません。

毛利などよりも例えば下剋上の代表としてなら一介の浪人から身を起こして関東の大大名になった伊勢新九郎こと北条早雲、同じく油売りから身を起こして策略や謀略で成り上がって天下を見据えたマムシと言われた美濃の斉藤道三など幾らでもおります。

彼らは毛利氏とは違い天下の情勢に直接かかわっています。

もっと凄いと私が感じるのはこの同時期に数百年に一人しか現れないであろう天才を三人同時に見る事が出来る点です。

一人は尾張織田信長、二人目が甲斐の武田信玄、そして三人目は越後の上杉謙信でありこの三人は明らかに他のどの戦国大名とは違い異質です。

この三人には共通の特徴があり自分で動いていなければおそらく戦国大名に成れていなかった点で同じです。

織田信長は確かに父信秀の正室の長男ではありましたが「うつけ」と言われた行儀の悪さに家臣から見限られて弟の信行が信秀の後継ぎとして家臣から推薦されていました。信長は「自分は重病にかかった」と嘘をついて弟の信行を見舞いに越させ実の弟を暗殺して家督を継ぎました、この時代ではこれが当たり前であり騙されたほうが劣っていたとしか見られませんでした。

武田信玄についても同じで父の信虎は次男の信繁に跡目を継がせる予定であった為に実の父親駿河に追放して跡目を継ぎました。

上杉謙信は次男であり最初から跡目を継ぐ立場では無かったのですが謙信の実力を恐れる兄晴影と戦になり勝利して国主の座を奪い取っています。

この三人は全く同時期であり現実に直接戦っています。特に国を接した信玄と謙信との川中島での合戦はその壮絶さで有名であり12年間、5回にわたって戦いました。

この三人の業績と戦いについては個別にブログで扱う予定です。

それ以外にも信長の後を継いだ豊臣秀吉徳川家康、東北の雄、伊達政宗、忍者部隊を率いた真田幸村をを凡人であると考えている人はまさかいないと思います。

とにかく日本はこの秩序が崩壊した戦国時代に優秀な人材を輩出し続けました。だからこそこの時代を取り上げる価値は充分にあると私は信じています。

これを後押ししたのは男に生まれれば誰でも天下を狙えるという日本の歴史上極めて異例な自由社会であり自分がやらなければ確実に自分がやられるという無政府状態の風土であった事は間違い無いと思います。明治維新を成し遂げた英雄たちが現在の日本の価値観とそう遠くは無い位置にいるのに対してこの戦国時代の価値観は同じ日本でありながら大きく違います。比べていただいて参考になればと思います。

あとがき

一つの時代にこれだけの英雄を一度に登場させた事は日本はおろか世界中探しても私は無いと思います。しかもそれぞれが個性が豊かであり現在の横並びと言われる日本人とは全く違います。

恐ろしく危ない100年以上の日本国内での戦国時代は負の面だけでは無く正の大きな歴史も残しました。現在からわずか400年あまり前の日本で実際に起こったこの歴史は現在の我々から見ても貴重な教訓を残してくれたと私は信じています。

実は幕末だけではなく、この時も日本はヨーロッパの植民地にされる危険性がありましたがこれらの英雄の働きで巧みに回避してきました。

現在の日本の歴史教育はおかしいとは私も思いますがこの時代については信長、秀吉の時代を「安土桃山時代」と一括りにして「江戸時代」と分けているのはかなり正確な描写でありこの二つの時代は全く違います。つまり信長と秀吉は一緒にできても家康だけは一緒に出来ない決定的な理由もあります。ブログが進んでいけばいずれは取り上げたいと思います。

次回からいよいよ本編に入っていきます。次回は美濃の斉藤道三を「マムシと言われた男」として取り上げる予定です。一介の油売りから戦国の主人公へとのし上がった道三は一人娘の濃姫を信長に嫁がせて若き日の信長と対面いたします。これも順を追って記述していくつもりです。宜しくお願い致します。