須佐之男の戦国ブログ

織田信長の軌跡(六)第一次信長包囲網(1)

武田信玄

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前書き

完全に周りを敵に囲まれてしまった織田信長にとって、最大の敵は大阪の石山本願寺と将軍足利義昭であり、ここから全国各地の戦国武将に指令が出ている事は明白でした。

しかし現実に目の前に迫ってきた最大の脅威は甲斐の武田信玄の上洛の動きです。今回の信長包囲網の差し迫った状況を打開するには直接的に信長の領土に攻め込んでくる信玄を止めない限り信長が生き残る道はありませんでした。

従って今回のブログは武田信玄の動きが中心になります。川中島の決戦後から上洛を決行し、出陣した後の武田信玄の動きを出来るだけ詳しく記述していく事で信長包囲網の中での織田信長を見ていこうと考えております。ご了承ください。

第四次川中島の戦いで信玄が失ったもの

上杉謙信との川中島での決戦で武田信玄は最後まで川中島の戦場に留まり上杉勢は川中島を去りました。戦場に最後まで留まった事では確かに信玄の勝利です。

しかし絶対にこの戦を武田勢の勝利と呼べないのは失った人材の大きさです。この失った人材については完全に上杉勢の勝利であり、武田信玄の甲斐軍勢は非常に深刻なダメージを受けました。

まずは武田信玄の弟であり武田の軍勢のナンバー2であった武田信繁の討ち死にです。武田信繁は甲斐の領土の財政の担当者でもあり、彼の死はその後の武田勢に大きな影響を与えました。

次には軍師であり、武田諜報部隊の長であった山本勘助の討ち死にです。武田勢は山本勘助の指示で動いていた側面も多々あり勘助の死は武田軍勢の士気に深刻な影響を及ぼしました。

信玄にとって最も大きかったのは信玄の嫡男であり信玄の後を継いで甲斐国主になる筈であった武田太郎義信への処罰です。義信の軍勢は本陣にいる信玄の「守りを固めて決して攻めるな」という命令に背き、その為に右備えから武田勢は崩れてしまい多くの戦死者を出しました。信玄としてもこの行為を見逃す訳にいかずに信玄と義信との間に深い溝が出来てしまい、追い詰められた義信は信玄の暗殺計画を実行します。これは完全に失敗に終わり、長年武田家の重臣であり義信の護役であった飯富兵部は切腹、謹慎中で寺に閉じ込められていた義信は飯富兵部の死を知ると責任を感じてその場で切腹、義信の妻は今川家に送り返されるという最悪の事態になりました。川中島決戦が武田勢に残した爪痕はあまりにも大きかったのが現実です。

武田信玄駿河侵攻

こうして武田勢は軍勢内に深刻なダメージを残しましたが信玄は自分の世継ぎに諏訪にいた信玄の四男である四朗勝頼を立てて、諏訪勢の力を借りて数年かけて軍勢を立て直し、永禄11年(1568年)に遠江徳川家康と同盟を組んで今川領である駿河に侵攻を開始し駿府城を落として初めて海を手に入れます。これで北の越後とは戦う理由は無くなった訳で将軍の仲介で密かに越後の上杉謙信と同盟を結び、背後の関東北条氏の動きを越後勢に抑え込ませます。徳川家康と信玄との同盟は大井川を挟んで今川領土の東側を武田領、西側を徳川領にするというものでしたが逃げる今川勢を追いかけたとの理由で武田勢は度々大井川を超えて徳川領に攻め込みます。実質的に今川勢を攻め落とした信玄にとって徳川との同盟は不要になった訳で口実を付けては徳川領を脅かし始めました。

武田信玄上洛開始

この時点で徳川家康と同盟関係にあった織田信長が考えていた事は武田勢はそのまま駿河から遠江を通って西に攻め上るだろうという事でした。ところが駿府城にいた武田勢はいきなり甲斐に戻って北の越後に向かいます。最後の川中島の戦いですが、こんなものは何の合戦も無く、武田信玄上杉謙信にそれまで武田領であった北信濃を返しただけで終わりました。その後信玄はいったん甲斐に戻って3万人近い大軍勢を集めて西信濃に攻め込みました。西信濃でいったん武田軍は二手に分かれて一隊は美濃に向かって侵攻、本隊は山に沿って天竜川を下り、徳川領の二俣城、掛川城に攻め込みました。掛川城が落ちれば家康のいる浜松城はすぐ側であり徳川家康は至急織田信長に援軍を要請しました。

しかし信長に援軍を送る余裕など全くありません。信長は石山本願寺とも将軍足利義昭とも浅井、朝倉とも戦争中であり戦力を他に使う余裕は全く無い状況です。信長の援軍が来ない事に怒った徳川家康は援軍が来なければ自分は武田勢と一体になってともに尾張を攻めると言い出しました。信長としてはここで家康にまで裏切られたら完全に終わってしまいます。信長は佐久間信盛平手汎秀らを中心とした織田勢3000人を至急浜松城に送りました。信玄を相手にして援軍3000人とは明らかに少なすぎる援軍ですが当時の信長にとってそれが限度の数でした。

援軍を出す折に織田信長徳川家康に相手は大軍であり絶対に城から出て戦う事を禁止しています。家康に城にこもって籠城させる様に織田信長は家康に要求しました。

武田信玄浜松侵攻

やがて掛川城を落とした武田信玄の本隊は浜松に入りました。この浜松城下の町で武田勢は、放火、強姦、略奪などのあらぬ限りの乱暴狼藉を行います。

そして浜松城のすぐ近くまで来ると武田勢は全く浜松城を無視して悠然と三方ヶ原の方角に向かって進軍を始めました。

この武田信玄の態度に怒ったのが徳川家康です。浜松の町を蹂躙し、自分を無視して西側に向かって行く武田勢に完全に無視された形になった家康は城から出て戦う覚悟をします。第一このまま武田勢を見送れば家康の信用は地に落ちます。自分に従ってくれている家臣もいなくなる可能性も出てきます。

浜松城から家康が見た武田勢は完全にこちらに後ろを見せており、最後尾は荷物を運ぶ荷田隊の行列です。3万近くいる武田勢でも1万数千の織田、徳川の連合軍が後ろから襲えば勝てると考えたのは当然で家康は早速軍勢を整えると三方ヶ原に向かって打って出ました。そして徳川家康は三方ヶ原で信じられない風景を目撃する事になります。

三方ヶ原の戦い

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徳川家康が三方ヶ原に上って見た風景、それは完全に攻撃態勢に変わって織田、徳川の連合軍に襲い掛かろうとしている武田信玄の軍勢でした。家康は完全に罠に嵌められたのです。浜松城下での乱暴狼藉もその後に浜松城にわき腹を見せて無視した武田信玄の行動も全ては家康を浜松城から出させて、城外で戦う為の信玄の作戦でした。城を落とす為には莫大な労力と時間が必要になります。まして浜松城は堅固な城であり織田、徳川の両軍勢で守られています。しかし相手を外に出してしまえば軍勢同士の勝負になり簡単に短時間で終わります。武田信玄が考えていた事はまさにその事であり、徳川家康は簡単にその罠に引っかかった訳です。

一瞬で追う者と逃げる者の立場は逆転しました。三方ヶ原に現れた織田、徳川の連合軍はことごとく討ち取られていきます。家康も勿論例外ではありません。本陣は一瞬で壊滅し家康は夜中まで武田勢に追いかけられて逃げ回る事態になりました。

この三方ヶ原の戦いで武田勢の戦死者は数十人、これに対して織田、徳川の連合軍の死者は1000人を超えています。完全な家康の負け戦であり、織田信長の援軍の将である平手汎秀の首は織田信長に送りつけられました。見事なまでの信長側の完敗です。

家康はこの時に恐怖のあまり馬上で脱糞して浜松城に付いた時には家康の乗っていた馬の背にはびっしりと大便が付いていたという事です。

ところが徳川家康が優れた武将であったのはその後の行動です。浜松城に着くとすぐに家康は絵師を呼び、恐怖で怯えている自分の絵を書かせました。上の絵をご覧ください。これが三方ヶ原での敗戦直後の家康の肖像画です。家康はその後死ぬまでいつもこの絵をそばに置いて我慢できなくなったり、辛抱しきれなくなりかけた時にはこの絵を見て考え直す様にしました。三方ヶ原の合戦徳川家康は「待つ事」「辛抱する事」の大切さを学び、この自分の情けない姿の絵を見る事によってその後の人生を見事に生かせて見せました。

しかし肝心の織田信長にとってそんな事はどうでもいい話です。武田信玄は三方ヶ原で簡単に織田、徳川の連合軍を退けて西に向かって侵攻を開始しました。すでにその先には織田方の城は野田城しか無く、野田城が落ちれば信長の本城である岐阜城に攻めかかって来るのは確実です。また一つ、確実に信長は追い詰められました。

あとがき

武田信玄が動くという事はこういう結果になってしまいます。だからこそ織田信長は信玄の機嫌を取り、同盟を強化し絶対に戦わない様に努力してきた訳です。

一方でこの時期に越後と甲斐の間に同盟が成立した事を知らない信長は上杉謙信に対して何度も信濃に出陣する様に書簡を送り続けています。

勿論、織田信長の書状などで謙信が動く筈も無く完全に信長は孤立していました。

しかし実はこの時期に武田信玄は深刻な病気を患っていました。この当時に労咳と呼ばれた肺結核です。武田信玄が一度甲斐に軍勢を集めた裏側には病気治療に出来るだけ専念して体調の回復を待って出陣する為であったと思われます。信玄の労咳は深刻な状況でした。

次回のブログは「織田信長の軌跡(七)第一次信長包囲網(2)武田信玄の死」を記述したいと考えています。いきなり周辺を敵国に囲まれた織田信長は信玄の死によってこの状況を打開して包囲網を突破します。武田信玄の死はそれほど劇的であり、信玄の死によってやがては武田家は滅亡していく運命を辿ります。

次回も宜しくお願い致します。

 

 

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織田信長の軌跡(五)小豆袋

前書き

浅井長政織田信長との同盟の約束を反故にした事に対する怒りに織田信長は全く気付かずに越前の朝倉義景攻めを決定して、元亀元年(1570年)4月20日信長勢は浜松の徳川勢とともに出陣しました。そしてそのまま越前深くの金ケ崎まで朝倉勢に攻めかかりました。

ここまでは歴史書に書かれている通りであり真実の歴史です。それに対して今回の「小豆袋」の話は一説であり証拠は何もありません。しかしこの時点で何らかの方法で織田信長浅井長政の本心に気付いた事は確実で、もしこの浅井勢の動きに気付いていなければ確実に織田、徳川両軍勢とも壊滅的な打撃を受けています。従って今回のブログはこの「小豆袋」の説を元に記述していきたいと思います。宜しくお願い致します。

小谷城にいた信長の妹の市

織田信長がこの朝倉攻めでの金ケ崎にいた時点でかなり苛立っていた事は確実です。

朝倉勢は信長が考えていたよりもずっと強く、徳川家康の手を借りても全く進展せずに信長は浅井長政の援軍が来ない事に対して不信感を持ち始めていました。

一方で浅井長政の本城である近江の小谷城浅井長政の妻として信長の妹の市はいた訳ですが夫であり近江の国主である浅井長政織田信長を攻撃する事を知らされて、浅井勢が戦の準備を始めても厳重に警備されており、兄である信長に使者を送って長政の裏切りを伝える事も、書状を信長に送る事も絶対に無理な状況でした。

この状況で市は信長の好物であった小豆を一袋信長の陣営に送ります。これなら何とか可能であった訳で、この小豆袋は両端を紐で結ばれた袋の中に小豆が入ったものでした。袋を運ぶ使者には信長に「お菓子にして召し上がる様に」とだけ告げていました。

だからこそ、この小豆袋はスムーズに信長陣営に届けられた訳です。

信長の反応

この袋を見た信長はすぐに全部隊の重臣を呼び集めます。そこで信長は浅井長政が裏切ってこちらに向かって侵攻中である事を全ての重臣に告げました。

両端を紐で縛られた小豆袋、片方の紐は朝倉勢でありもう片方の紐が浅井勢である事、このまま朝倉勢を追って越前深く攻め込めば、袋の中の小豆と同様にまさに袋の中のネズミに織田、徳川の両軍勢がなってしまい、袋の中の小豆が一粒も外に出る事は無いのと同様に一兵残らず全滅する事を悟ったという話です。

とにかく生き残る為には浅井勢が到着するまでに逃げるしか無く、信長は全軍の退却をその場で命じます。この時にしんがりとなって最後までその地に留まり、出来るだけ追手から信長を逃がす役割を買って出たのが木下藤吉郎秀吉であり、織田信長と一緒になって安全に信長を逃がす役割を買って出たのが明智光秀です。すぐさま信長をはじめとする織田軍勢はその場から消え退却を開始しました。

しかし慌てて逃げる織田軍勢と全く対照的であったのが徳川家康の率いる三河勢であり、家康は秀吉に三河勢500人を預けて悠々と退却しています。信長にとってこんな負け戦は初めてであり、浅井勢のいない琵琶湖の西、朽木谷を通って京へ10日間以上にわたって必死の退却が行われた訳です。

織田、徳川両軍勢は総崩れになり「信長が敗れた」との噂はあっという間に広がりました。

京で信長が見たもの

退却し始めた時に信長が考えていた事は自分が生きて京に帰って軍勢を立て直して改めて浅井、朝倉と闘う事であったのは間違い無いと私は考えています。尾張の統一でも美濃での戦でも局地戦で信長勢が負ける事は決して珍しい事では無く、信長はその都度、軍勢を立て直して戦ってきた訳であり、今回の負け戦もすぐに取り戻せると考えていたと思われます。しかし京に近付くにつれてそんな願望は幻でしか無かった事を信長は思い知らされます。「信長が負けた」という情報は信長の帰還よりもはるかに早く京に伝わっており、これまで信長に従っていた武将、僧侶は次々と信長を裏切り殆ど味方がいない状況に変わっていました。信長は京に入る手前の比叡山で肩を鉄砲で狙撃され、京に戻った途端に完全に信長に敵対した将軍足利義昭の軍勢に都から追い払われます。信長はこれまでの自分が甘かった事を思い知らされ美濃の岐阜城に撤退を余儀なくされます。

信長が京に戻って見たものは人の裏切りによる絶望感でしかありませんでした。

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軍勢を立て直して再び京へ

信長の性格を鬼に変えたのは戦では無くこの人の心の変わり方です。やがて続々と家臣たちも美濃に戻り軍勢を立て直すと信長は再び京に向かって侵攻を開始しました。京に戻った信長は比叡山延暦寺に立てこもった浅井、朝倉両軍勢の引き渡しを何度も延暦寺に求めますが延暦寺は全くそれに応じずに雪解けを待って浅井、朝倉両軍勢を国元に返し、それを追う織田勢を僧兵は攻撃します。

激昂した信長は比叡山延暦寺に対して今後一切戦には延暦寺は関わらない事を誓わせ自分への忠誠を求めましたが、延暦寺はこれに全く応じず石山本願寺も信長に対して挙兵しました。都でも信長が将軍に合う事も全て断られ朝廷内への出入りも規制されました。信長は延暦寺に対して約束を守らなければ根本中堂、山王二十一社を全て焼き払い僧兵もろとも皆殺しにする旨を伝えましたが延暦寺はこれを無視した為に、元亀2年(1571年)9月12日に全軍に延暦寺への攻撃命令を出し比叡山の焼き討ちを決行します。

「僧侶からその家族、女、子供に至るまで寺に繋がるものは皆殺しにせよ」との命令で日本の歴史上初めての民間人の大量虐殺が行われ、信長の肩を狙撃した者は三条河原で竹ののこぎりによって通行する一般庶民に一引きずつさせて七日間かけて徐々に殺していくという惨たらしい処刑が実行されました。こんな事は以前の信長の政策とは全く違う事であり、織田信長は人から鬼へと変わった訳です。自分の義理の弟である浅井長政の裏切りによる越前からの撤退後完全に信長は変わりました。

動き出す武田信玄

織田信長がその生涯を通じて絶対に戦いたくない武将が二人いました。一人は越後の上杉謙信であり、もう一人は甲斐の武田信玄です。いずれも織田信長には強すぎる相手でした。

その為に信長はこの二人に対しては惜しげも無く南蛮渡来の献上品を送り続け、何度も同盟を結び直してきました。特に上洛への意欲が強く、尾張や美濃とも近い武田信玄とは信長の嫡男と信玄の娘との婚約を成立させて同盟を強化してきました。ところが今回の比叡山延暦寺の焼き討ちは完全にこの二人を怒らせる結果になりました。

武田信玄の信玄とは仏教から与えられた法名であり、上杉謙信の謙信も同じく法名です。仏教の聖地である比叡山を焼き、仏に仕える僧侶を皆殺しにした信長のこの行為をこの二人が許す筈も無く、当時に駿河侵攻中であった武田信玄は将軍の仲介で初めて上杉謙信と同盟を組み、駿河からそのまま遠江三河を狙ってそのまま尾張、美濃に攻め込む構えを見せました。

南からは石山本願寺が北からは浅井、朝倉勢が、そして京では将軍足利義昭が信長に向かって挙兵し、東から武田信玄が攻め上って来るという、後に第一次信長包囲網と呼ばれる体制が完全に出来上がった訳であり、織田信長の味方は浜松城にいる徳川家康だけになってしまった訳です。

織田信長に逃げる場所はどこにも無く、軍勢を一点に集中して戦う事も出来ず、信長の周囲は敵だらけです。鬼に変わった信長を待っていたのはこの厳しい試練であり、絶命の危機でした。既得権益と闘う事いう事はすべてを敵にする事であり織田信長はその難しさをこの時に痛感したのは間違いないと私は考えています。

あとがき

前回のブログで私が織田信長の朝倉攻めが信長の完全な作戦ミスであると書いた意味を皆様には解って頂けたでしょうか?

全てのきっかけはこの「朝倉攻め」から始まっており、その為に織田信長は一度手にした都を追われ、都に戻って戦を始めた途端に周囲を敵に完全に囲まれる状況に一変した訳です。比叡山延暦寺の存在は他の戦国大名から見ても厄介なものであり、武装し、鉄砲まで持っていた僧兵を快く思っている戦国武将など一人もいませんでした。

ところが信長が実力行使した途端に、殆どすべての戦国武将が敵になり、完全に織田信長を囲む体制に入ったのが現実です。

この比叡山への信長の所業についてヨーロッパから来た宣教師であったルイス フロイスの書簡には

「神の火が悪人どもを焼き尽くした」 と書かれており日本の既得権益に苦しめられていた宣教師から見た比叡山の焼き討ちは全く違った目線であった事が良く解ります。

しかし日本人の戦国武将である織田信長はこの事で完全に窮地に追い込まれました。

次回のブログは「織田信長の軌跡(六)第一次信長包囲網(1)」として今回の続きを記述するつもりですが次回のブログの中心は武田信玄になると思います。武田信玄は晩年にこの信長の上洛後の動きが許せず上洛を決意し実行します。その動きは今川義元などとは比較にならないほど複雑で巧妙であり、ついに浜松城の西側の三方ヶ原で織田、徳川の連合軍と激突します。この「三方ヶ原の戦い」で武田信玄は織田、徳川の連合軍を蹴散らしますが、この敗戦で大きくその性格を変えたのは徳川家康でした。

若い頃の家康は決して「鳴くまで待とう時鳥」と呼ばれる様な気の長い性格では無く、短気な戦国大名でした。この戦で彼は「待てなかった」が為に大変な目に合い、以降は待つ事の重要さを骨身にしみて覚える事になります。そのあたりの事も私の知る限り出来るだけ詳しく書いてみたいと考えています。宜しくお願い致します。

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織田信長の軌跡(四)信長上洛

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前書き

織田信長今川義元桶狭間で破って諸国から戦国大名として認められたのが永禄3年(1560年)、美濃を攻略し足利義昭を奉じて上洛したのが永禄11年(1568年)、このスピードを他の戦国大名はどう見ていたのでしょうか?

実際に驚異的な速さであり、反感を買った事は間違いが無いと私は思います。上洛する事と天下に号令する事はこの時代でも全く別の事であり、上洛だけなら信長は桶狭間の戦いの後に一度上洛しています。しかし今回の上洛は室町幕府第15代将軍足利義昭を奉じての上洛であり、将軍を通じて織田信長に反抗心を持つ戦国武将を抑え込むつもりで信長がいる事は明らかであり誰の目から見ても、勿論信長自身もこの上洛は天下を治める為のものである事は明らかでした。彼はこの時にまだ33歳という若さであり、それ故に自身の名代として将軍足利義昭を使った訳です。将軍に歯向かうものは朝敵となります。朝廷の権威も将軍の権力も知り尽くした上で織田信長は上洛しました。

都を治める事の難しさと織田信長の政策

京都はそれまで700年以上天皇陛下が在籍されている都であり、応仁の乱で荒れ果てていたとはいえ、全く他の領土とは別格であり、天皇陛下征夷大将軍もおられるこの地を治める事は極めて難しい事が現実でした。

落ちぶれていようが公家は公家であり侍などは自分の下にしか見ていません。これを力で抑え込もうとした木曽義仲は京を追われる結果になりました。武家社会の始まりである平家でさえ結局はこの地を追われて、その後政権を取った鎌倉幕府は最後まで決して京には近付きませんでした。都を治めるのと地方の領国を守る事とは全く意味が違います。まして織田信長に対しては乱暴者との噂も立っており信長にとってもここが正念場であったのは確実です。

そこで信長が最初に行った事は徹底した都の治安の回復でした。京に住む一般庶民たちが昔の雅な京の街を望んでいる事を彼は知り抜いていました。自分の家臣からその一族まで京での乱暴狼藉は厳禁にしました。侍が金を盗んだ場合、金額の如何に関わらずすべて首をはねるという「一銭斬り」を実行し京都奉行には木下藤吉郎秀吉が任命されました。「絶対に侍の食べる米は確保しておけ、米が切れれば兵が暴れる」というのが信長の厳命であり、侍の衣食住を安定させた上で厳しい処罰を与えた訳です。木曽義仲よりも織田信長の軍勢のほうが行儀が良かった訳では決してありません。命令に背いた時の処罰が徹底的に厳しかったのが現実でそれ故に行儀が良く見えただけです。

この信長の厳命の元で都の治安は劇的に回復し、信長は庶民から歓迎された訳です。この信長の都と他の地域を全く別に考える姿勢は彼が死ぬまで全く変わりませんでした。あれほど既得権益を嫌がる信長が京の関所だけには終生全く手を付けていません。都を敵に回す事はすべてを敵に回す事であり自分を滅ぼす行為である事を信長は知っていました。

京の文化の吸収と利用

織田信長は朝廷からも将軍からも官位を受ける事を出来るだけ避けた事は、これまでにもブログに書いてきましたが、彼が将軍から譲り受けたものは大津と堺の港の権益です。信長は尾張にいた頃津島で港から莫大な利益が上がる事を承知していました。だからこそ彼は官職よりも港の権益を優先した訳です。そこから京に運ばれてきて都人の間に流行り初めていた「茶の湯」に彼は注目しました。これを戦に使う事を彼は考えたのです。

戦で勝って得た領土も敵方の財宝も限りのあるものであり、論功で家臣に与えるのは不公平感がどうしても出てしまうのが現実でした。そこで信長が考えたのは領土の上に恩賞として「茶の湯を開く」許可を与える事であり、領土一国より「茶の湯」のほうが大切だと家臣に思わせる事です。これならば限りなどありません。いくらでも茶釜は作れます。

信長は堺から千利休を呼び茶頭に据えました。この茶頭という身分は織田家の家老よりも重く、この事で茶の湯の地位を飛躍的に上げました。信長の茶会に呼ばれる武将がその功名心を満足させられる仕組みを作った訳です。

将軍の権力の利用

武家の棟梁である征夷大将軍の権威は戦国時代に入って下降していましたが、織田信長は将軍の権威を取り戻す為と称して二条城完成後に畿内の大名に将軍にあいさつに来るように要求します。信長の本音は将軍へのあいさつなどどうでもいい訳で将軍を支えている自分にあいさつに来いと言う意味です。しかし出される書状には将軍名が記載されている訳であり、これを無視すると朝敵扱いになります。信長は将軍の権威を利用して戦をせずに自分の配下を増やしたいのが本心であり多くの大名はこれを拒絶する事は困難でした。そんな中で何度この要求を出されても拒絶したのが越前の朝倉義景であった為に信長は朝倉攻めを決断しました。

これが信長が犯した最大の作戦ミスであり、やがては信長を絶体絶命のピンチに追い込む原因になりました。彼のこの決断は上洛の苦労もそれまで積み重ねてきた勝利も全て吹き飛ばし、織田家の存続も信長の命も風前の灯になります。

浅井と朝倉との関係

織田信長の決定的な間違いは織田家と同盟を組んでいた近江の浅井長政と越前の朝倉義景との関係を甘く見ていた事にありました。

浅井と朝倉との関係は信長との同盟よりもはるかに古く父祖代々の良好なつながりの上に成り立っていました。織田と浅井の同盟の際にも「朝倉を攻める時には必ず浅井に相談せよ」とあり、信長は今回浅井に相談せずに朝倉攻めを決めた訳です。浅井長政が怒ったのは当然であり、浅井長政の妻が信長の妹の市であったとしても到底許される事ではありませんでした。信長が浅井に連絡したのは朝倉を攻めるのに浅井も参戦しろという命令書であり、決して相談などではありません。浅井長政はこれを同盟の放棄であると考えて織田信長が朝倉を攻撃した場合は信長と戦う決意をしました。

これは地理的に見ても信長は絶対に勝てません。越前に攻め込んだ信長を近江の浅井勢が攻撃するという事は前後から挟み撃ちになります。横には琵琶湖、上には海しか無く逃げる事は絶対に不可能です。この朝倉攻めには徳川家康も参戦しており背後から浅井勢が攻め込めば織田、徳川両軍とも全滅するのは確実です。

織田信長は絶体絶命であり、生まれて初めて悲惨な負け戦を経験する事になりますが、それは悲惨な負け戦の序章にしか過ぎず、以降究極の屈辱を味わい、数年間は勝ちの全く無い戦を経験する事になりました。その始まりがこの朝倉攻めです。

あとがき

上洛するまでの織田信長は上り調子であり、すべてがうまくいっていました。しかしこの朝倉攻めを皮切りに地獄の数年間を味わう事になります。信長は自分でも気付かないうちに敵をたくさん作りすぎていました。

室町幕府15代将軍足利義昭はその筆頭です。自分を将軍職に付けてくれたのは信長ですが政治はすべて信長が仕切っており、義昭は二条城に閉じ込められた状態です。足利義昭はかなりの策略家であり、筆まめでもあった為に、信長に隠れて各地の有力大名に信長征伐の書状を送っていました。この書状が信長の上洛に反感を持っていた各地の戦国大名を喜ばせた事は間違いが無いでしょう。

次に朝廷です。古くからのしきたりを無視し官位を拒絶する信長に反感を持っていた事は確実です。朝廷の仕事とは古来からのしきたりを実行する事であり、天皇陛下から与えられる官位を拒絶するものなど逆賊でしかありません。朝廷から見た武士などは自分たちより確実に下であり、そんな連中が逆らっているのが面白い筈がありません。信長は確かに朝廷には尽くしていました。将軍と朝廷とを信長が同じ目で見た事は一度も無く朝廷を信長が蔑ろにした事はありません。しかし朝廷からの官位も受けずに勝手に政治を行う事など許される筈も無く信長の力が大きくなる事を朝廷が恐れていたのは間違いないと私は思います。

これは神社仏閣も全く同じ思いであり、自分たちの作った関所を次々と壊していく信長は許せぬ存在でした。信長は浄土真宗の信仰は認めていましたが門徒一向宗が起こす一向一揆は厳罰にしていました。当時の浄土真宗の総本山は大阪の石山本願寺であり徐々に信長との間に緊張感が生まれつつありました。浅井、朝倉の連合軍が信長を破ると石山本願寺もすぐに参戦します。当時の浄土真宗の信者は1000万人以上いたと考えられており、これを敵に回して信長が勝てる筈もありません。比叡山高野山も信長の事は良く思っておらず彼らもまた信長を攻撃し始めます。

信長の敵はすべての既得権益であると以前に私が書いた意味がお解りでしょうか?

信長が尾張や美濃にいる分には全く問題が無かったのですが、都に来て政治を行うとこうして何から何まで敵になってしまいます。この現実に一番気付いていなかったのが当の織田信長であり、すべてにおいて信長の政策は甘かったのが真実でしょう。

天下はまだ何も収まっていません。自分が上洛した事によって収まったと勘違いしているのは信長だけです。この厳しい現実を彼はその後嫌というほど思い知る事になります。京に上るだけで天下が取れるのならずっと京にいる将軍の権威が落ちていく筈もありません。京に上ってからが本当の勝負であり、信長は今後死ぬまでそれと闘い続ける事になります。

さて、次回のブログですが「織田信長の軌跡(五)小豆袋」を記述したいと考えています。全滅の危機にあった織田、徳川の両軍を救ったのはたった一袋の小豆袋でした。この事も一説ではありますが、私はその説で信長の動きを説明していきたいと考えています。と言うのはこの「小豆袋」で信長軍は取り敢えずは絶滅を免れたというだけであり、大局的にはこんなもので信長は全く救われていません。それどころかその後の信長の行為によって今回は書かなかった最も信長にとって恐ろしい敵がいよいよ動き始めます。

鬼になった信長が取った行為は当時の常識から考えても全く常識外の出来事であり、その行為によって絶対に信長が怒らせたくなかった相手がとうとう信長の前に立ちふさがります。次回も宜しくお願い致します。

 

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織田信長の軌跡(三)

美濃攻め(2)

美濃攻略

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前書き

前回のブログは墨俣城築城の寸前で終わりましたので、今回は墨俣城築城から織田信長が完全に美濃を落とすまでの経緯を記述します。

信長にとってこの美濃攻略は斉藤道三の敵討ちだけでは無く、上洛の為に絶対に必要でした。東は徳川家康と北は近江の浅井長政と同盟を結んだ信長にとって隣接する敵地は美濃だけになった訳であり、ここを攻略しない限り、尾張の軍勢は決して京に向かって動けなかった訳です。しかし道三の跡を継いだ斉藤義龍、その子の龍興に替わっても美濃の斉藤勢は非常に強力であり、尾張勢と互角の戦いを繰り返していました。

ですから信長は敵の領土内に砦を作り状況の打破を考えた訳であり、最終的にその役目を木下藤吉郎秀吉が担当する事になりました。極めて困難な仕事であり、織田信長の美濃攻略はこれ以降は秀吉が中心になっていく事になります。

一夜城建築

秀吉が考えたのは確かにこの地は敵の領土であり、戦いながら砦を創る事になるのは間違いの無い事でありますが、墨俣は長良川木曽川との間の三角州であり、川を背にして戦えば、後ろは川であり敵は前方からしか攻めて来られず守りを前面だけに集中させられる事であり後面の敵のいない川を利用する事でした。

彼が築城任命後に直ちに向かったのは墨俣よりも川上で尾張領土である山林です。そこで秀吉は材木を切り取り砦構築に必要である建材を全て手に入れました。尾張の領国である為に建材は簡単に手に入った訳です。

次に手に入れた建材を使って墨俣よりはるかに上流で斉藤勢から一切見つからない場所で砦を組み立てます。完成した砦には番号を付けてから解体しました。そしてすべての建材を川に運び、筏にして夜になるのを待って川に流した訳です。プラモデルを組み立てた事がある皆様には解ると思います。複雑なプラモデルが短時間で完成するのは番号通りに組み立てる事が出来るからであり、プラモデルの素材がはじめから加工なしに組み立てられる様な形をしているからです。それをこの時代に秀吉は実行しました。

筏にした建材を川を流す作業はその仕事に慣れている川並衆がすべてこれを請け負いました。上流から夜に流された建材は下流の墨俣で引き上げられその夜のうちに番号通りにもう一度組み上げられていきました。

次の日の朝になって斉藤勢が墨俣を見ると砦が組みあがっており、その周りを織田勢がアリの群れの様に集まって警備している。これではもう手の出し様がない訳です。後に「墨俣の一夜城」と呼ばれる砦はこうして完成しました。

美濃攻略

しかしこの砦を完成させた秀吉は美濃攻略を決して焦りませんでした。墨俣に攻めてくる敵を撃退しながら以前にも増して諜報活動により斉藤勢の内部の切り崩しにかかります。斉藤勢の本城である稲葉山城は極めて頑強な城であり、普通に攻めても簡単には落ちない事を彼は解っていました。内部の切り崩しにより、一気に城を落とす事を秀吉は考えた訳です。

そうしているうちに稲葉山城の裏側に向かうルートを彼は手に入れました。そこから城に侵入する事を彼は考えた訳です。その日取りに合わせて信長は尾張勢を伊勢方面に出陣させるような体制を取りました。そして秀吉が城に侵入する日の夜に合わせて稲葉城の正面に布陣した訳です。一方の秀吉は30人ほどの手勢を引き連れて稲葉城の裏側から城内に忍び込み美濃勢のふりをして城内に火をつけて回りました。

豊臣秀吉の旗印をご存知のかたはいらっしゃいますでしょうか?  秀吉の旗印は「千成瓢箪」と呼ばれるヒョウタンの形をしていますが、その原点はこの美濃攻めにあります。稲葉山城正面に布陣する信長勢に城内に侵入し作戦が成功した事を知らせる合図が持ってきたヒョウタンを槍の上に付けて高く掲げる事で城外にいる信長に知らせる事でありました。ヒョウタンを確認した信長軍は正面から一斉に正面から稲葉山城に攻め込みます。城門を破って侵入した秀吉の別動隊を早く助けないと別動隊が全滅します。信長軍は一気に城内に突入して別動隊と合流し稲葉山城はその日のうちに陥落しました。

織田信長の美濃攻略が完全に成功した瞬間です。

その後の織田信長

美濃を完全に手に入れた織田信長はまず稲葉山城の大幅な改築を命じました。そして完成した城に「岐阜城」という名前を付けて信長の本城にして家臣もその家族にもすべてこの岐阜城へ引っ越しさせます。この「岐阜」という名前は古来の中国で「岐山」という場所から天下を取ったという言い伝えから来ていると言われていて信長の天下に対する強い決意を感じます。またこの頃から信長が各地に届ける書状には「天下布武」の烙印が使われ出します。これは「武力で天下を治める」という意味であり、信長はその本心を徐々に形にしていった訳でした。

そんな中織田信長に大きなチャンスが訪れます。殺された室町幕府第13代将軍足利義輝の弟であり、越前で放浪生活をしていた足利義昭織田信長を頼って美濃にやってきました。信長はこの事で足利義昭を正当な将軍職として擁立する為に上洛して天下に号令する大義名分を手に入れます。京への上洛の道筋を整えて正式に信長は上洛する事を決意しました。この足利義昭の家臣であり、その後に信長に仕えたのが明智光秀であったと言われています。すべての天下取りの条件がこれで整った訳です。

あとがき

こうして織田信長は美濃一国を手に入れた訳ですが、では元の国主であった斉藤龍興に対して信長がどんな処分をしたのかといえば「美濃からの追放」であり、命を奪ったりしていません。織田信長は極めて戦国武将として温厚な性格であり、ここまでの信長のふるまいについては全く残酷な行為は一切していませんでした。信長の結んだ徳川家康浅井長政との同盟も完全に平等な同盟です。但し、家康の長男である徳川信康の嫁に信長の娘を嫁がし、夫婦仲がうまくいっていない事を理由に信長は家康に信康とその母親に切腹を命じました。しかしこれは徳川家康の正室が今川家の出身であった事や娘を心配する親心と取れない事も無く特に信長がこの時代特に残酷な武将であったとは言い難い話です。織田信長は朝廷に御所や京の荒れ果てた街を整備する金も充分に出しており、自分を頼ってきてくれた足利義昭も大切に扱っています。

ところがある事件を境に信長は窮地に追い込まれて、その後彼の性格は大きく変わります。信長はこの事件以降は完全に人から鬼へと変わったと言っても良く、それまでの温厚な性格の信長とは完全に別人に変貌します。

その事も数回先のブログで触れていく予定であり、その為に信長は日本中の武士も一般庶民も敵として戦う事になるのですが次回のブログは「織田信長の軌跡(四)信長上洛」を記述したいと考えています。宜しくお願い致します。

 

 

須佐之男の戦国ブログ

 織田信長の軌跡(二)美濃攻め(1)                   木下藤吉郎

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前書き

織田信長尾張戦国大名であり、革新的な人間であった事は前回のブログで記述しましたが、信長一人がいくら革新的で斬新な考えを持っていても、それを完全に理解して実行してくれる家臣がいなければ信長の戦略は何も実行できず幻に終わってしまいます。尾張の信長の部下たちは当然、当時の武将のごく一般的な考えしか持っていなかった訳であり信長の奇抜としか考えられない政策を実行する為には確実にそれを理解した部下が必要な訳です。信長は自分の考えを完全に理解してくれている武将を二人持っており、この二人を競わせてその能力を引き出す事によって自分の政策を実現させていきました。

その二人とは木下藤吉郎と美濃を攻略した後に信長の部下になった明智光秀です。以外に思われるかも知れませんが、本能寺で信長を謀反によって討った明智光秀は確実にその中の一人です。明智光秀に関してはまた別の機会でブログに取り上げますが、今回は木下藤吉郎について私なりに分析して記述してみたいと思います。

勿論、この木下藤吉郎とは後に信長の後を継いで天下を取った豊臣秀吉であり戦国時代を語る上では決して外せない人物です。この美濃攻めは木下藤吉郎の働きによって達成されたと言っても過言では無く、その後の信長の勢力の拡大にも彼は大きく関わってきます。彼もまた信長とは完全に別次元で非常に変わった考えを持った人物でした。

その出自と信長の部下として活躍するまで

木下藤吉郎の出自については正確な事は何も解らないとしか言いようが無く、尾張の中村の百姓の出であったという事も信長の草履取りをしていたという事も何の証拠も無く、間違いが無いのは歴史書に記述する必要が全く無いほど低い身分であったという事です。戦国時代の武将はその殆どが政略結婚をしているのに対して木下藤吉郎の結婚は完全に恋愛結婚です。彼は小者と言われる侍とは言えない低い身分から足軽へと出世した後に自分の上司である足軽組頭の娘である「おね」(ねねとの説もあり)と恋愛し、結婚しました。彼はその生涯に十人以上の側室を持つ身分になりましたが、死ぬまで側室と正室であるおねとの扱いはしっかりと分けて考えてており、どれだけ側室が増えようとも自分の最初に結婚したおねとの差は比較にならないほど違います。彼は自分が朝廷から位を頂くとおねにも絶えず位を与え続け、最終的におねの名は「豊臣吉子」となり、彼女の位は「従一位」にまで上り詰めました。女性の地位としては日本の歴史上彼女は最高の地位であり鎌倉時代に権力をふるった北条政子も秀吉の死後征夷大将軍となり江戸幕府を開いた徳川家康も最高位は「従二位」であり、彼女には遠く及びません。彼女は秀吉の死後から自身の最後までこの戦国時代に一般庶民から成り上がった最高位として君臨し続けました。

特に強力だったのが豊臣家の家臣を決める人事権であり、これは終生秀吉より上であったと思われます。加藤清正福島正則などは彼女が見つけて育てた人材ともいわれており、豊臣家の勢力は秀吉の家系よりも彼女の家系の人材が確実に優先されています。

木下藤吉郎のこの姿勢は一生涯全く変わりませんでした。

その出世の方法

侍として出世する為には戦で敵の首を取って出世していくのが当然であったこの時代に木下藤吉郎には全くそんな実績がありません。彼が出世していったのはその頭の回転の良さであり、槍や刀の腕とは何の関係もありません。大名に彼がなった後も彼が考えたのは出来るだけ戦わずに相手を降伏させる事であり、それに徹していました。

木下藤吉郎が最初にその頭角を現したのは薪係となり、清州城の財政に関わる部分に関与した時だったと言われています。彼は城内で使用する食料品や備品の使用量をそれまでの3分の1以下に抑えて兵糧を備蓄し、画期的に財政状況を改善して見せました。

続いて彼が正式に士分となり侍として認められたのは台風によって清州城の城壁が数百メートルにわたって崩れ落ちた事が要因でした。半月経っても殆ど修復出来ていない外壁に信長が不満をあらわにしていたところに自分であれば3日で完全に修復すると豪語してそれを実行しました。

後に「秀吉の割普請」と言われるその方法は修復担当の職人たちを呼び集め、修復を担当する箇所を職人のチームごとに分けて修復出来た順番に合わせて賃金とは別に賞金を出すというもので職人同士の腕を競わせて職人魂に火をつけ必死に仕事をさせる事によって極めて短期間で外壁の完全修復を行うという考えであり、約束通り3日間で清州城の外壁は完全に修復し、その功績によってはじめて信長から正式に士分に取り立てられました。役に立つ人間を徹底的に利用し出世させるという信長の考えと木下藤吉郎の実績が完全に一致した訳であり、その後彼は戦の評定に加わる事も戦に信長の配下として参加する事も認められた訳であり、異例の速さで信長の元で出世していきました。

美濃攻めに対しての藤吉郎の働き

斉藤道三亡き後も斉藤竜興が国主となっていた美濃は大国であり、数年間信長と闘ってもなかなか進展しない状況が続きました。

信長は近江の浅井氏と同盟を結んで背後からも美濃をけん制する為に自分の妹であり戦国時代一の美女と言われた市を浅井長政に嫁がせて美濃攻略を考えました。そのころ秀吉と名を変えていた藤吉郎は美濃国内の豪族の切り崩しにかかります。彼は信長に仕えるまでは放浪生活をしていましたが、その折に美濃の川並衆と呼ばれた野侍の蜂須賀小六とも面識があり、川並衆を味方に引き入れて美濃の内部を混乱させます。

続いて美濃の軍師として有名であった竹中半兵衛を信長側に寝返らせる事を試みます。何度断っても自分に頼みに来る秀吉に対して最後は竹中半兵衛は信長に力を貸すのは嫌だが秀吉になら仕えると申し入れたと言われています。秀吉は「信長様に仕えて貰わないと困る」と言い申し入れを辞退したという話ですが、この話を聞いた信長は秀吉を呼んで激昂します。「何故断った? お前に仕えるのと織田家に仕えるのとどこが違う?」と激しく秀吉を叱りました。次の日に秀吉は半兵衛の家を訪れて自分の家臣になってくれと頼みこんで、竹中半兵衛は秀吉の家臣になったと言われています。こうして秀吉は自身のこれまでの経験から出来た人脈を利用して諜報活動を行い美濃の内部の弱体化を諮りました。

敵地に城を創る

その頃の尾張と美濃との争いは一進一退であり、なかなか信長としても苦戦していました。そこで信長はこの状況を打開する為に大胆な作戦を立てます。木曽川長良川との三角州である墨俣に砦を築いて一気に斉藤勢を追い込む作戦です。

ところがこの「墨俣」という地域は完全に斉藤家の領土であり、敵と戦いながら敵地に砦を創る事など不可能な事であり一向に作戦は実行できませんでした。当然の話であり、そんな事は容易に敵が許す筈がありません。作戦から半年以上が経過しても全く進展しませんでした。業を煮やした信長は織田家の重臣を叱りつけます。

そこで是非自分にやらせてくれと願い出たのが秀吉でした。彼には独自の方法によって極めて短期間に墨俣に砦を創る自信があった訳です。信長は秀吉にこの作戦を任せる事を決意しました。

あとがき

後に「墨俣の一夜城」と呼ばれるこの砦の築城の手前で今回のブログを終える事になりましたが「一夜」と言うのは大げさであり現実にはもう少し時間がかかったと私は思います。しかし、一夜で簡単に敵から攻撃されない基礎を創ってしまった事は確実だと思います。まさに秀吉の頭の回転の良さには驚くしか無いです。

答えを知っていない皆様は次回までにどうやったら敵地の真ん中に一晩で砦の基礎を築けるのか考えて頂ければありがたいです。

信長も勿論この時代の異端児であり変わっていますが、木下藤吉郎も全く違った意味で変わっています。竹中半兵衛の最初の申し入れを断ったのも、もし勝手に信長に黙って半兵衛を自分の家臣にした時の信長の怒りを考えたものである可能性も高く、彼ほど信長に叱られた武将もいないと思います。ここに決定的に明智光秀と秀吉の違いがあり、秀吉は叱られる事も非常に上手であり、叱られる事を前提に働いていた様な部分が多々あります。一方の明智光秀は信長に仕えてからは秀吉を上回る速度で出世を重ね、京と信長の居城である安土との境目の坂本に領土を持つ大大名に成りますが結局は信長に付いていけず謀反を起こす事になります。

映画や小説ではこの信長が討たれた「本能寺の変」に秀吉も関わっていたというのものも多数ありますが、現実的に見て私はそれはあり得ないと断言できます。この事もいずれブログで書いていくつもりですが信長が「本能寺の変」の直前まで秀吉よりも光秀を重要視していた事は明らかで、それ故に簡単に討たれてしまった訳です。

光秀が信長に謀反を起こした理由は全く別の部分にしっかりあります。いずれその事も記述しますが次回のブログは今回の続きで「 織田信長の軌跡(二)美濃攻め(2)美濃攻略」を記述したいと考えています。宜しくお願い致します。 

 

 

 

須佐之男の戦国ブログ

信長の軌跡(一)人間 織田信長

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前書き

前回のブログの最後に今回から織田信長についてしばらくはブログに記述する事を書きましたがこの武将は他のどの戦国大名とも比較が出来ません。信長の死後に信長の実績をたたえ、自らを信長の後継者と名乗った東北の雄である伊達政宗でも実際の織田信長の思考とは全く違います。

信長は戦国時代に忽然と現れた突然変異のニュータイプの人類と言っても良く、その行動や実績は誰とも比較する事は不可能ですべてにおいて独特であり比較出来る人物がこの時代には一人もおらず、日本の歴史全体を見渡しても殆ど誰とも似ていません。

今回のブログは信長の足跡を記述する最初のブログであり、現実の織田信長とはどういう人物であり何が他の戦国武将と徹底的に違っていたのかをまずは記述してみたいと考えています。宜しくお願い致します。

領土に対する考え

戦国武将にとって自国の領土を守り拡大し、経済力を蓄えていくのは当然の考えであり、それを怠れば自国が滅ぼされると考えていた事は間違いの無い事実です。

ところが織田信長には最初から裕福な領土を手に入れて自分の力を拡大していくという観念が全くありません。

その典型的な例が桶狭間の戦い今川義元を討ち取った後の織田信長の行動です。今川領土には金山も多くあり、加えて魅力的な港も豊富なコメを取れる田も多くあったのにも関わらず、織田信長はこの今川領土に何の関心も持っていません。旧今川家の領土はすべて戦国大名として初めて独立した徳川家康に与えて徳川家康と軍事同盟を結んだだけです。自分の最大の強敵を討ち取った戦国武将がその強敵の領土には何の関心も持たなかったことなど、この戦国時代の戦国武将にはあり得ない話です。織田信長の領土的な野心は尾張から京につながる場所だけに初めから限定されており、その場所以外の領土には何の興味も感じませんでした。この武将だけは小大名であったころから確実に天下を取る事を具体的に考えており、その為の最短距離を進む姿勢は徹底していました。

天下を治めるという野心

この時代の戦国武将に肝心の「天下を取る」という意味ですら織田信長と他の戦国武将とでは全く意味が違います。他の戦国武将が考えていたのは無力化した室町幕府の足利将軍に替わって自分が将軍になり天下を治めるという事であり、これまでの武家社会の延長戦上にその考え方は間違い無くあります。

ところが織田信長にとって天下を取るという意味は自分が征夷大将軍になる事とは全く違います。彼の考えは日本の構造自体の破壊的創造であり、すべての既得権益の崩壊です。将軍を頂点とする武家社会も宗教の既得権益も朝廷の権威さえ織田信長は敵対視して見せました。そして自分が上にあがるまでは天皇の権威も将軍の権力も徹底的に利用するという姿勢で天下取りに挑みました。足利義輝が殺された後に、足利義昭が正当な後継者であると主張して上洛し彼を将軍の座に付けたのは織田信長です。しかし彼は足利義昭からの副将軍への依頼も管領職の依頼も全て断り、将軍を二条城に閉じ込めた状態にして自分がすべての政治を動かしました。朝廷から見ても織田信長は右大臣という極めて低い身分でありながら正親町天皇に退位を迫り歴の改定を強要しました。こんな事は日本の歴史上一度もあり得なかった大事件であり、一部の歴史家から信長は天皇の廃止も考えていたと言われる根拠はこれです。

しかしもし信長が本能寺の変で討たれていなかっても信長が朝廷を廃止する事はあり得なかったと私は考えています。信長が朝廷にも将軍にも宗教勢力にも要求し続けた事は「政治には口を出すな」という一点であり、国内の政治は何の既得権益も無い自分がすべて新しい体制で行うという意志表示です。この信長の意志に納得できずに反乱を起こした足利義昭は追放され15代続いた室町幕府は完全に終焉しました。

信長にとっての天下を治めるという事業は完全に既得権益との戦いであり彼はその意味でも極めて特殊な存在です。

信長の性格

信長の性格については多くの人が残忍で神仏を全く信用しなかった恐ろしい性格であったと誤解していますが、現実とはかなり異なります。

織田信長は自分の部下に対しても一度の裏切りは何の問題にもせずに許しています。織田家の家老であり信長の重臣であった柴田勝家は一度は織田信行について信長に反逆を起こした首謀者です。前田利家は信長の寵愛していた坊主を斬り一度は謹慎処分にされています。羽柴秀吉でさえ信長の指令に逆らって勝手に戦場から軍勢を引いた事で謹慎処分を受けています。信長は自分に逆らった部下を許す性格であり決して短絡的に人の命を奪う性格ではありません。信長が残酷な性格であったと思われている理由は殺した人間の数では無く殺した人間の質の問題です。

例えば浅井長政に裏切られて酷い敗戦を経験した信長は浅井の領土であった小谷の住民の皆殺しを命じています。比叡山延暦寺の焼き討ちに対する比叡山延暦寺の僧侶の皆殺しや高野聖のなで斬りなど非戦闘員であり当時の聖職であった僧侶に対する厳罰は徹底していました。これは信長の最大の敵が宗教勢力であった為に仕方が無い事でした。信長がキリスト教を保護したのは有名ですが決して彼はクリスチャンでは無く、最終的に「大六天魔王」を名乗って宣教師を追放します。築城に3年はかかると思われていた二条城を半年で完成できたのは一番時間のかかる石垣の設置を京都とその周辺の墓石を石垣にして建築したからであり、それゆえに彼は神仏を全く信じなかったと思われている訳です。

真実の信長の宗教観は目に見えないものは信用できないという立場であり、信長は今で言うオカルトの世界に非常に興味を持っており、奇術が出来るという超能力者が現れると好んで城に呼んで自分の目で確認しています。

但し、彼は偶像崇拝は一切信じない性格で、墓石や石仏はは単なる石であり、人間が作った仏像や神には何の興味も無かっただけです。信長がキリスト教仏教より大切にしたのは当時の日本のキリスト教が何の既得権益も無い宗教であったからであり、信長は異なる仏教の宗派の論争を積極的に行わせました。

長が知りたかったのは目に見える真実であり、目に見えないものを決して受け入れなかっただけです。既得権益とは関係なく宗教を信じる者はどんな宗教であっても信仰を認めており、特定の宗教を弾圧した事も無ければ排除した事もありません。

信長が敵対視したのは既得権益を持った宗教団体であり決して宗教自体を敵対視しませんでした。

現在から考えてもかなり変わり者であった事は間違いが無い事ですが、信長の合理主義とはそういう世界観です。当時の西洋から来た宣教師が信長に地球儀を見せて「地球は丸いものである」と言った時に即座に信長が「理に適う」と言って納得した事は有名で、初めて地球儀を見せられた人間が即座にそれを認めたのは初めての事であり地球儀を見せた宣教師もたいへん驚いています。

土地に対する考え

人間は、特に日本人は住む土地に縛られた性格だと言われており、長年住み慣れた故郷を大切に考えます。ところがこの土地に全く縛られず愛着も持たず、その生涯をその状況に合わせていとも簡単に居住地を代えたのが織田信長です。

尾張の小大名に成った時の信長の居城は清州城でした。ところが美濃攻めが始まると織田軍勢もろとも小牧山に居城を移します。美濃を攻略すると稲葉山城岐阜城と名を改めて居城にして、上洛を終えると琵琶湖に接した安土に巨大な城を建築しまた居城を変えています。

安土の次には大阪の石山本願寺跡に移るつもりだった様で織田信長が死んだ為に、その意思を豊臣秀吉が継いで大阪城を築城したのは確かなようです。

とにかくこの時代にこれほど自分の住む城を変えたのは織田信長だけであり、彼に日本人固有の土地に対する愛着心など全く無かった事は明白です。この信長の自分の居城を移す事にはそれぞれ彼の計算があり、決して京に城を持たなかったのにも既得権益に取り込まれる事を何よりも嫌った信長の計算です。

一般的に城下町と言えば敵に攻められにくく複雑に周りの道を作る事で有名ですが信長の建築した安土城の城下町は城まで続く一本道が通っていた事が有名であり、安土城天守閣は「天主閣」という字であった事も解っています。

織田信長の人間としての感覚が当時も現在から見ても特殊であった事がご理解いただけたでしょうか?

あとがき

織田信長が他の大名と全く違った世界観を持ち、その理念に忠実に従って行動していた最大の理由は彼が一番大切に考えていた事が日本の経済であった事です。一般庶民が既得権益によって商業活動を妨害され不当な金品を要求されていた事は織田信長から考えれば決して許される事ではありませんでした。熱田神宮から伊勢神宮に向かう為には寺社が作った関所をその度に金を払って100か所以上も通る必要があり、輸送商品の価格は跳ね上がってしまいます。

これを一部の「座」と呼ばれる特権を持った商人だけが販売できるシステムになっていた当時の日本の既得権益の酷さに織田信長は正面から戦いを挑んだ訳であり、信長の活躍によって一般庶民は既得権益から解放されて日本の経済は飛躍的に向上しました。

織田信長は恐ろしい武将であった」という言葉は既得権益の中で自分は何もせずにのうのうと暮らしていた一部の人間の本心であり既得権益から解放された一般庶民から見た織田信長は確実に救世主であった訳で決して織田信長は恐ろしい武将ではありません。

織田信長の視点はその生涯を通じていつも一般庶民から見た目であり、極めて短期間で織田信長が天下に号令をかける立場になれた事は彼を支持する一般庶民の応援があったおかげです。

織田信長の領土内では関所が激減され兵農分離によって農民は戦から解放され楽市楽座の制度によって誰でも簡単に商売を始める事が出来るようになりました。封建時代の中で突然始まった民主主義の原点とも呼べるこの織田信長の政策を批判できる一般庶民は殆どいなかったと私は考えています。

次回からいよいよ織田信長の天下取りの過程に踏み込んでいきます。次回は「織田信長の軌跡(二)美濃攻め」を記述したいと思います。駿河今川義元を討ち取った直後から信長の関心はかつて斉藤道三がいた美濃一国に完全に絞られていきます。しかし道三の死後も美濃は大国であり、信長はこの一国を落とすのに3年以上も費やす事になります。その中で信長は考えられない奇抜な作戦を立ててそれを礎にして一気に美濃を落とします。次回も宜しくお願い致します。

 

須佐之男の戦国ブログ

敵に塩を送る

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前書き

敵が最も欲しがっているものをわざわざ自分の敵に与える意味である「敵に塩を送る」という言葉が出来たのは戦国時代だと言われています。

私が今回のブログで書くことはそのことわざが出来た事の一説であり、この事の証拠は文献として一方だけにあり、真実が違う可能性もあります。但し、この説を覆す証拠も全く無く、この状況に甲斐の武田晴信が至った証拠は確実に存在します。

敵とは誰なのか? 何故塩なのか? という疑問もこの説以外では説明が出来ません。従って今回のブログはこの一説に従って進めていきます。ご了承ください。

三国同盟の破棄

永禄3年(1560年)に尾張の田楽狭間で今川義元織田信長の奇襲によって打ち取られ、翌年に川中島上杉輝虎と決戦を行った甲斐の武田晴信は軍勢の力が回復するまで数年の期間を要しましたが、武田軍の力が回復するとこれまでとは全く違った動きを見せます。同盟国である筈の今川家の領土である駿河に諜報員を送り込み、義元の後を継いで国主となっていた今川氏真を圧迫し始めます。

三国同盟は義元の死後は機能しているとは言えない状況になってきました。もはや今川勢に義元が健在であった時の勢いは全く無く、浜松は徳川家康と名前を変え、織田信長と同盟を結んだかつての今川家の人質であった松平元康の領土に変わっており、その後の今川軍は京を目指して侵攻する力は完全に無くしていました。三国同盟の基礎である軍事力の均衡は完全に崩れた状態になってしまった訳で今川義元の死後に態度を豹変させて武田軍が駿河を狙っている事は明らかでした。現実には義元の討ち死にによって三国同盟は崩壊していました。

経済制裁

駿河の新しい国主となった今川氏真は、この武田晴信の脅威への対応を迫られた訳ですが義元の死とともに大きく領土を失った今川勢に強力な武田勢に対抗できる軍事力は全く無く、今川氏真は軍事力以外の方法で武田勢に対抗するしか方法は無かった訳であり、まずは今川氏真は自分と同じく武田晴信の動きに不快感を持っていた関東の北条氏康と同盟を結び直して武田軍に対応しました。

しかし、北条氏と同盟を結んでも武田晴信の動きは全く変わりません。今川領内に侵入し一向一揆の勢力をあおり国境を脅かし続けます。

そこで最終的に今川氏真が思いついたのは甲斐への塩の全面禁輸です。甲斐領土に海は無く人間は塩が無ければ生きていけません。まずは駿河から甲斐へ送る塩を完全に止めて関東の北条氏もこれに続いて塩を止めました。甲斐の武田晴信は太平洋側からの塩の輸送を完全に止められた形になり、今川氏真は越後の上杉輝虎とも手を結んで経済制裁で甲斐への塩を完全に止めてしまう事で甲斐軍勢の動きを止め、武田の弱体化を考えた訳です。越後の上杉輝虎と甲斐の武田晴信が宿敵である事は誰もが充分に承知しており、越後が塩の輸送を止める事は確実だと思われました。武田軍や甲斐領国内の住民は武力では無く、この経済制裁によって危機的な状況に陥りました。塩は人間にとって生命を維持する必需品であり、塩が無くなれば確実に人間は生きていけません。甲斐国内は窮地に陥りました。

上杉輝虎の対応

この今川氏真からの甲斐国内への塩止めの依頼を受けた上杉輝虎は即時に甲斐への対応を取ります。それは塩を止める事では無く、逆に越後国内にある大量の塩をまずは無償で甲斐国内に送り込みました。この報告を受けた越後の上杉輝虎の言葉を現代語風に訳すと

「今川や北条が甲斐への塩を止めたのは戦をして勝つ見込みが無いからである。自分は武田晴信とは武力で勝負をつける気であり、戦とは関係の無い一般庶民を苦しめる塩止めには決して加わらない」

という言葉であり大量の塩とともに手紙を武田晴信に書き「塩はすべて越後が用意する、塩の価格を不当に釣り上げたりするものがいたら直ちに自分に報告してほしい、決して相手の弱みに付け込んだ経済制裁には越後は参加しない」というものであり、この手紙を受け取った武田晴信上杉輝虎に名刀国立の太刀を塩を送ってくれたお礼として送ったと言われています。真の侍のライバルとはまさにこの二人の関係であり数年前に川中島で激戦を経たこの両雄には明らかに共有部分が生まれていました。

越後は完全に今川の要求を跳ね返し、甲斐への塩止めには決して加わりませんでした。この為に今川氏真経済制裁は甲斐国内の駿河への反感を買っただけで失敗に終わり武田勢は織田信長との同盟を確認し、永禄11年(1568年)より東からは武田軍が駿河侵攻を開始し、西に逃げる今川軍を徳川軍が止めるという駿河侵攻を開始します。武田軍の動きに危機を感じた関東の北条氏康は今川と手を切り、越後の上杉輝虎に息子を人質に差し出して同盟を結び武田晴信に対抗しますが武田軍が北条氏の領国である関東平野に攻め込んでも上杉輝虎は全く動かず、この同盟は極めて短期間で北条氏が上杉氏に人質を出しただけの露頭に終わりました。

上杉輝虎はその生涯を通じて決して「利」では動かずに自分の信念を通して見せました。

事実の検証

私が今回のブログで書いてきたことで証拠が無い事は上杉輝虎武田晴信に塩を送った事の資料が無い事だけです。今川や北条が武田への塩止めをした資料は残っており、上杉が塩を止めた資料は全くありません。

越後から甲府まで「塩の道」と呼ばれる塩を運んだとされる道も現存しており、武田晴信駿河攻めをした事も北条氏康が越後と同盟を組んだ事も事実です。

「いくら上杉でも武田にそこまではしなかっただろう」という考えは現代人の歴史観であり「敵に塩を送る」という諺は現在も残っています。

第四次川中島の戦い以降に武田、上杉両者の考え方が変わったのは確実であり、この駿河侵攻の後に武田晴信織田信長との同盟を破棄し、いよいよ京に向かっての侵攻を始めますが、織田信長上杉輝虎にその時になって武田軍の背後から攻めてほしいと申し入れても上杉輝虎は全く動いていません。これも日本の歴史の事実です。

だから私は現実に越後から甲斐に塩が送られた事は極めて現実に近いと考えています。甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信とは川中島の戦いを通じてそういう関係になったとしか考えられないのが現実です。この両雄が現在でも多くの支持を受けている裏側にはこうした二人の友情もあったと私は考えたいです。

あとがき

関東、東海のこの様な日本古来の戦国武将とは全く違った考えを持ち、独特の政策の上に天下取りを意識して動いていた武将が尾張織田信長です。

信長の戦や政策、その思考は武田信玄上杉謙信とは全く違います。信長が合理主義者であった事は良く知られている話ですが信長の合理主義とは現在の日本人とも西洋人とも大きく異なります。まず彼には自国の領土を守るという観念も無く、これまでの権威である朝廷や将軍を敬うという考えすら全くありません。利用できるものは徹底的に利用するだけであり、自分の部下に対しても古くから織田家に仕えているものを重要視する事も家柄にこだわる事も全く無く、役に立つものと役に立たないものをはっきり分けているだけです。この為に尾張の小大名でしかなかった信長はいきなり天下取りレースの頂点に上り、あと一歩で天下を治める武将に成り上がった訳です。

「鳴かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス」という川柳は信長を現したものとして有名ですが現実は「鳴くまで待った」のは信長であり、決して彼は残酷な性格でも無ければ冷たい独裁者であった訳でもありません。

次回から数回はこの織田信長の天下取りの道を「信長の軌跡」として記述したいと考えています。現在においても彼ほど誤解されている戦国大名は無く、その誤解には大きな裏があります。彼の行った実績は現在の日本にも大きく生かされており、もし彼がいなければ日本は現在と全く違う国家になっていた事は確実です。織田信長の思考は現代社会から考えても、決して古いものでは無く恐ろしく未来的な考えであり、彼が日本の歴史を変えた第一人者である事は間違いの無い事実です。

そういう訳で次回からしばらくは織田信長に焦点を絞ったブログを記述させてもらいます。宜しくお願い致します。