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須佐之男の戦国ブログ

上杉謙信(一)

自分を神と信じた男

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前書き

前回のブログの最後に触れた様にこの上杉謙信という戦国大名は他の誰と比べても極めて特殊な存在であり、はっきり言えば変わり者です。幼少期に僧侶を目指して寺で修行していた経験がその原点になっている事は確かでしょうが、この武将の最大の特徴は自分の事を最後まで人間だと思っていなかったとみられる部分が多々あり、そういう意味においても当時の他のどの戦国武将と比べても異質な存在です。

七福神の中に毘沙門天という神様がいる事を皆様はご存知でしょうか?

毘沙門天は仏法を守る軍神であり、上杉謙信は自分がこの毘沙門天の化身であると信じて疑いませんでした。従って神の化身である自分に鉄砲も弓も槍も決して当たらないと信じており、この信仰心は魔力になりました。現実にこの武将が戦で敵の攻撃を受けて負傷した事は一度も無く、無傷であった事は全く常識外れの出来事です。

例えばこんな話があります。永禄四年(1561年)三月謙信は大軍を率いて越後から関東平野に出て相模国(現在の神奈川県)に侵攻し北条氏の本拠地小田原城を包囲しました。この時に謙信は敵兵が構える小田原城の城門のすぐ近くまで馬で駆けつけ城門の前で弁当を食べだしました。北条氏から見れば大変なチャンスであり謙信めがけて弓、鉄砲が激しく撃ちかかりました。その中で謙信は平然と弁当を平らげてお茶を三杯もお代わりしております。その中で謙信は全くの無傷でありそのまま悠々と引き上げました。

今回のブログはこうした上杉謙信戦国大名に成るまでの経緯とその戦略、性格を分析していきたいと思います。

その誕生から戦国大名に成るまで

享禄三年(1530年)正月に上杉謙信は越後守護代長尾為影の末子として越後に誕生しました。為影は苦心して越後を統一した武将でしたが、彼の病没後に越後国内はたちまち乱れて当時七歳だった長尾景虎(謙信の幼名)は甲冑を身に着けて父の葬儀に参列したと言われています。

その後、為影の跡目を嫡男晴影が相続、景虎は林泉寺の僧侶天室光育に預けられて僧侶への道を進んだとされています。ところが彼が一三、四歳の頃、兄晴影によって俗界へ引き戻されて栃尾城を預けられ武士としての道を進む事になります。ここで景虎は兄である晴影を助けて越後の平定に力を尽くす事になりました。

しかしです。この景虎のあまりの戦の強さに家内の人望は大きく兄である晴影を上回るようになりやがてこの兄弟の争いが深刻化し、越後国内は二つに割れました。天文一六年(1547年)に晴影は大軍を率いて栃尾城に攻めかかりますが逆襲にあって景虎に敗退して、越後守護、上杉定実の仲介にあって兄晴影の引退という形で長尾家の家督は景虎が継ぐ事になり、翌年景虎は本城である春日山へと移りました。この時の景虎の年齢はわずか19歳でした。これが戦国武将長尾景虎(後の上杉謙信)の誕生です。

その戦略と戦法

春日山城に移った長尾景虎は重臣を呼び集めて自分の今後の方針を発表します。その内容は当時の戦国大名の常識から遠くかけ離れたものでした。

自分が戦をするのは

1、自分の領国内に敵が攻め入った時

2、近隣の武将から助けを求められた時

3、将軍や朝廷からあのものを撃てと命じられた時

この三つに限るという事です。つまり絶対に侵略戦争はしないというのがこの長尾景虎の信念でありました。この時に彼はもう一つ重大な約束をしています。自分は仏身の身でありながら戦をする事になった為にその戒めとして生涯女性を近づけず、家族も子供も持たないと宣言しており、この姿勢は死ぬまで変わりませんでした。

この長尾景虎の最大の特徴は欲が全く無い事であり、彼が理想とした世の中は荒れ果てた戦後時代を室町時代の平穏な時代に戻す事でした。時代は確実に新しい世の中に向かって動いている中で彼はその生涯を通じてその強力な軍勢を時代を逆行させる事に生涯取り組みました。まさに戦国時代のドン・キホーテとも言える存在でありこの武将はこの点で他のどの戦国大名と比較しても異質です。自分自身が京に上り天下に号令することなどは全く考えなかった戦国武将は彼だけだと思います。

現実に彼自身、その生涯に二度に渡って上洛を果たしております。しかしこの男は京での用事が済めば祖国へ帰るのが当然であり自分が京で覇権を振るう事を全く考えていませんでした。

さらに彼の軍勢の戦での最大の特徴は前回のブログでも少し触れた「車掛り」と呼ばれる渦巻き状になった異常な陣形です。この時代の戦の陣形は「鶴翼」と呼ばれる鶴が羽を広げた様な形が一般的であり行進中の軍勢は「雁行」と呼ばれる陣形が一般的でした。いずれも本陣を守り、攻撃にも守備にも適した陣形でありましたが長尾景虎はこれらの従来の形式を全て無視しました。

車掛りの陣の最大のメリットはその攻撃能力です。相手の軍勢の一点に回転しながらいつでも新しい軍勢を向けられる事になり、疲労が積み重なっていく敵方に対して元気で新しい軍勢を回転しながらぶつけていく事で一点突破を狙う完全な攻撃型の布陣でデメリットは大将を守る本陣の陣形が組めない事ですが、前書きでもお伝えしたように上杉謙信にとって自身の身は不死身であると信じ込んでおり本陣の厳重な守りは必要が無いというのが信念でありましたからこういう陣形が組めた訳です。

とにかくあらゆる面においてこの「越後の虎」と呼ばれた上杉謙信が特殊であり、前回触れた武田信玄とはその思考回路が全く違う事がご理解いただけたでしょうか?

この二人が国境を接する隣国であった事は今から考えれば非常に皮肉な事でした。

あとがき

前回は武田信玄、今回は上杉謙信を記述しましたがこの二人はともに天才的な一面を持ちながらも全く違う考え方を持っていた事が理解していただけたと思います。

と、言うよりこの上杉謙信のほうが明らかに異常であり戦国大名の一般的な思考から大きく逸脱しています。欲を持たず、策略を用いず、戦をなるべく避けるという彼の思考は戦国大名としては不適格であったのかもしれません。しかし現実にはこの武田、上杉の軍勢の強さは戦国武将の一,二を決める程強力であったのは間違いの無い事実でありこの両者は激しく戦いました。

上杉謙信は生涯独身を貫き、正義の為だけに戦を行い、一切の損得勘定では動かずに、養子を貰って家督を継がせてその養子には信玄の娘と夫婦にさせました。彼は戦国大名には向いていなかったかも知れませんが、この時代にあって人間としては確実に最上であったと私は思いますが皆様はいかがでしょうか?

さて次回ですが再び武田信玄に戻って「武田信玄(二)三国同盟」を記述したいと考えています。三国とは甲斐、駿河、相模であり武田、今川、北条の同盟です。この同盟には三者それぞれの思惑があり、これが後に織田信長今川義元が戦う桶狭間の戦いにも深く関わってまいります。宜しくお願い致します。