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須佐之男の戦国ブログ

勘風発迷

前書き

武田晴信織田信長使者から今川義元の軍勢が京に向かう事をどう思うかと聞かれて答えたというこの言葉はどんな歴史書にも残っておらずこの言葉自体が殆ど伝説の世界です。しかし織田信長から同盟を打診された武田晴信の心はこの言葉に現れている事は間違いが無い事実だと私は思います。

「勘風」とは思わぬところから吹いてきた風の事であり「発迷」とはその風が発せられて自分は迷っているという意味になります。

「思わぬところから吹いてきた風」とは間違い無く織田信長武田晴信に同盟を求めてきた事でしょう。それを受けて自分は迷っているというのは武田晴信の本心だと思います。

今川義元北条氏康との三国同盟今川義元が京に上る事を武田、北条が了解した事と同意義であり絶対に武田晴信の本心では無かった事は間違いがありません。但し、現在の自分は越後に上杉政虎という大敵を抱えていて、この時点では武田軍が京に上る事など不可能でした。しかし尾張織田信長から見れば今川軍が西に向かって動いた時に最初に潰されるのは自分であり、自分の命を守り今川義元を打ち取る為には東側で今川領と隣接し今川義元の行動をどの武将よりも良く解っており、なおかつ今川義元が京に上る事に不満を持っていると思われる武田晴信に同盟を打診するしか無く、三国同盟が締結された事を解っていながら武田との同盟を打診してきたのは真実です。

その後、武田晴信の娘を信長の息子に嫁がせる約束をして尾張と甲斐の軍事同盟が締結したのも事実であり、西に向かって進む今川義元の軍勢の中に三国同盟の名の元に武田晴信の兵力が加わっていた事も確実であり、武田晴信はこの二つの同盟を同時に機能させる事により自分の要望を実現させたと見る事が一番現実的だと私は思います。つまり武田晴信今川義元を攻めれば明らかに同盟違反になりますが織田信長今川義元を打ち取らせたところで何の同盟違反にもならない訳であり、今回のブログはそれを前提にして桶狭間の戦いを記述してみたいと思います。宜しくお願い致します。

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桶狭間の戦い前日

後方の憂いが三国同盟により一応無くなり、国内での戦も無くなった事を確認した今川義元はいよいよ本格的に西に向かっての侵攻の準備を着々と整えていきます。この西に向かっての軍勢が尾張を落とすためだけだったのか京にまで上るつもりだったのか義元が途中で織田信長に打ち取られてしまった為に真相は解りませんが、尾張を落とすためだけであるならこの軍勢の規模は大きすぎであり上洛も義元が考えていた事は確かだと思います。

この今川軍の軍勢は、駿河三河遠江の軍勢を合わせて構築しており、少ない側の歴史資料を見ても二万人を超えており、補給部隊やその付属部隊を加えると確実に四万人以上であった思われます。その中には三河軍1500人を率いていた松平元康(後の徳川家康)も尖峰として参加していました。

その大軍勢はいよいよ永禄3年(1560年)信長の住む尾張に向かって行軍を開始し、まずは織田方に奪われた大高城をまずは奪還する動きを見せました。尾張にとっては大変な危機であり、すぐに有力武将は信長の住む清州城に集結して軍議を始めました。ところが肝心の信長はこの軍議には殆ど参加していません。尾張国内が緊迫する中で大将である信長だけは平然と日常の暮らしをしていた訳であり織田軍の重臣たちは強い絶望感を持っていました。その次の日の夜明け前に信長の諜報員から今川義元の軍勢が尾張国内の丸根、鷲津の両砦に攻めかかったとの一報を受けてそれまで寝ていた信長は飛び起きます。立ったまま湯漬けを食べ、敦盛の舞を踊ると甲冑を身に着け単身で熱田神宮に向かって馬を走らせました。この時に信長に追いついて一緒に熱田神宮に到着出来たのはわずか6人だったと言われています。

大軍を小軍で迎え撃つには城にこもって戦う籠城戦が常識でしたが信長は「籠城戦で勝った武将はいない」との理由で野に出て戦う事を決意したのです。熱田神宮には信長に遅れていた武将が次々と駆け付け信長は熱田神宮で織田軍を整えました。神への祈りをささげて使者を待っていた信長に今川義元が田楽狭間に向かっておりそこで休憩する予定であるとの一報が入ります。それを聞いた信長は全軍を田楽狭間に向かわせました。桶狭間の戦いの直前の状況がこれでした。

桶狭間の戦い

田楽狭間の中の桶狭間に到着した織田軍は丘の上に今川義元の本陣と思われる軍勢を発見します。それは思った通りの大軍勢でした。勿論、丘の上にいる今川軍からは信長の軍勢は丸見えだった訳であり、しばらくは両者の膠着状態が続きました。この膠着を破ったのが突然に降りだした雷雨です。この雷雨を利用して織田軍は丘の上の今川軍に近づき、雨が降り止むとすぐに今川軍に襲い掛かり織田家の毛利良勝は今川義元の首を打ち取りました。戦国時代最大の逆転劇である桶狭間の戦いはこのわずか2時間ほどで終結し、この功績によって織田信長戦国大名として初めて一人前だと認められる事になった訳です。これが桶狭間の戦いです。

桶狭間の戦いの謎

この戦にはいくつも謎があります。まず信長軍が雷雨を利用して義元本陣へ近づいていた事が今川軍には全く気付かれていない点です。いくら雷雨で見えにくい状況であっても敵の動きが一切見えなくなる筈は無く信長軍が近づいている事は絶対に確認できた筈です。そうであるならばそれに備えた動きをするのが当然であり、本陣は守りを固めて敵から遠ざける事が当然であるのに全く今川軍にはそんな動きはありませんでした。

次に義元が打ち取られた場面の状況です。これもどの歴史書にも全く記述がありません。常識的に考えれば雨が降りだした時点で義元は近くの民家に入ったと考えるのが当然であり義元は民家の中かその近くで打ち取られた事になります。逆に織田信長から見ればこの戦は完全に時間との戦いです。圧倒的に数に勝る今川軍を相手に長時間戦う事は絶対に無理で義元がどの民家にいるのかを見分けていなければ絶対に攻撃は出来ません。短時間で義元の首を取る事、これが出来なければ織田軍は全滅してしまいます。この謎を解くカギは何でしょうか?

ここからは私の推測になります。真実の史実とは違うかもしれません。雷雨の降る中を織田信長に今川方の兵士が近づき義元のいる位置や今川軍の状況を教えたとしたらどうなるでしょうか?  信長軍はその情報に従って行動し、極めて短時間で今川義元を打ち取る事が出来た訳です。勿論見知らぬ敵の兵士が近づいて来たら確実に殺されます。だからこそ、この兵士と信長との間に日常的に関係があり、しかも常に義元の動向を織田の諜報員に教えていたのがこの兵士であるなら納得がいく訳です。日頃から今川義元の側近でいられたという事はこの兵士は義元の信頼が厚くなくては絶対に無理で織田軍のスパイでは絶対に務まりません。でも三国同盟を結んだ武田勢の兵士であるなら義元としても武田の動きを探る為にもそばに置きたがる筈であり、武田と織田との軍事同盟はこの作戦の為に結ばれたと考えればすべてに納得がいく訳です。私がこの桶狭間の戦い武田晴信が関わっていたと考える理由はここにあり、駿河を出発してからの義元の動向はすべて細かく信長の元へと伝わっていた訳です。だからこそ信長は通常の生活をしながらも一人でいつも義元を撃つ作戦を立てられた訳であり戦のセオリーを完全に無視した行動も平気で取れた訳です。この桶狭間の戦いは偶然の積み重ねで織田信長が勝ったと考えるにはあまりにも無理が多いのが現実でどこかに裏があったと思うほうが明らかに自然だと私は思います。決して今川義元は愚劣な武将などでは無く、それまで恐ろしい勢いで領土を拡大して「東海一の弓取り」と呼ばれていた極めて優れた武将であり、この今川義元の最後はあまりにも不可解です。

あとがき

この桶狭間の戦いの後に当然ですが織田家ではこの戦の論功行賞が行われました。そしてこの桶狭間の戦いで手柄第一になったのは今川義元の首を取った毛利良勝では無く、簗田政綱という織田信長の諜報員です。確かに信長は他の戦でも諜報活動を得意として諜報員を大切にして敵の情報を集める事を重要視していました。

しかし、諜報員が一番手柄だと認めたのは生涯の戦を通じてこの桶狭間の戦いだけであり、当時の常識から考えても直接今川義元を打ち取った毛利良勝よりも諜報員である簗田政綱を上に持ってくるのは考えられない話です。諜報員はあくまで隠密であり、普通の兵士と同等では決してありません。

これが情報を教えてくれた武田晴信に対して織田信長の礼儀の尽くし方だったのでは無いかと私は感じています。桶狭間今川義元が打ち取られた事は織田信長にとって未来の希望が開けただけでは無く武田晴信についても同様の思いだったと思います。

勿論、この時点では武田晴信は北に向かっての侵攻をあきらめた訳では無く越後の上杉氏と戦っておりました。しかし、この桶狭間の戦いの翌年、永禄4年(1561年)に初めて武田晴信は越後軍と正面からぶつかる戦国時代のもっとも悲惨な戦いであるとされる川中島第四回の戦いを経験して北に侵攻する事の無理を悟ります。次回から数回に分けてこの戦国時代の龍虎が正面からぶつかった第四回川中島の戦いを記述する予定でおります。今から考えても間違い無くこの時代に最強の軍勢を率いていたのは越後の上杉軍か甲斐の武田軍であった訳で、それはこの戦いで証明されたと私は考えています。この両軍勢は戦の駆け引きから戦闘能力、大将のリーダーシップから軍勢の士気に至るまで他のどの軍勢と比べてもずば抜けています。だからこそ、これまでの三度の戦いは相手の力が解っている為に双方とも正面からの戦いは避けてきた訳であり、この第四回の戦いで両者は激突します。これは戦の始まる前からその終了と結果についてどうしても複数回で記述する必要があると私は考えています。宜しくお願い致します。