須佐之男の戦国ブログ

川中島決戦(二)出陣

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前書き

これまでの三度、武田晴信上杉輝虎との正面からの戦いを避け続けてきました。

その理由は、この上杉勢に限っては自分の戦法である孫子の兵法である「風林火山」の戦法が全く通用しないからです。孫子の兵法は敵の内部に入り込み内部から裏切り者を出し、諜報員を巧みに送り込んで徹底的に敵戦力を弱体化させてから本格的な攻撃を始めます。ところがこの上杉輝虎という人物には最初から全く欲が無い為に内部を探る事も諜報員を送り込む事も不可能に近く内部崩壊は期待できません。うまく上杉の重臣に近づいてそそのかして武田側に付け反乱させる事に成功しても、この上杉輝虎は反乱が収まれば自分を裏切った部下を許して命も地位も決して取り上げません。こんな人間を相手にすれば孫子の兵法など何の役にも立たないのが現実でした。

なおかつこの上杉軍の動きはその神出鬼没さで武田軍を大きく上回ります。越後国内に入った武田の諜報員は上杉軍に動きがあればすぐに武田晴信にその軍勢の規模や進行するルートを知らせます。それを元に武田晴信は計算してどこにどれくらいの軍勢が現れるのか計算するのですが、現れる場所も軍勢の規模も現れる時間も武田晴信の計算をはるかに超えたところにいきなり大軍勢が出没します。これでは作戦を立てられる筈も無く、軍勢を動かす事も無理になります。

武田晴信が正面からの戦いを避け続けてきた訳はそこにあり、決して武田軍が臆病であった訳でも無く動けなかった訳です。第四次川中島の戦いはそうした状況の中で始まりかけていました。

敵に動きあり

今回も最初に動いたのは上杉軍でした。関東平野に出陣し、諸豪族を含めて10万人に迫る規模で小田原城北条氏政を包囲していた越後軍がいきなり城を囲むのを中断し三国峠を超えて善光寺平に1万3千人の兵力で現れたという報告は「敵に動きあり」というのろしとともに武田晴信に伝わりました。晴信はすぐさま武田勢2万人の軍勢を整えて出陣しました。

ところが武田勢2万が出陣したとの報告を聞いた上杉輝虎は実に不思議な行動を起こします。善光寺平に5000人もの兵力を残して約8000人の軍勢で川中島へと向かい始めました。この報告を聞いた武田晴信は越後軍の目的が川中島に建造された海津城を落とす事にあると確信します。海津城の兵力を増強して本隊は海津城に入らず越後軍が海津城を囲んだ後に城の中の兵力と本陣の兵力で一気に上杉軍を攻撃する作戦を立てました。

しかしこの武田晴信の作戦も見事に外れます。越後軍は海津城の前を悠然と通り過ぎ、そのまま武田領内に侵入し、武田領内の妻女山の頂上に陣を張るとピタリと動きを止めました。山の頂上に陣を張る軍勢を攻めるのは城に入った軍勢を攻めるのと同じであり極めて困難です。すぐに越後勢を攻める無理を感じた武田晴信は夜陰にまぎれて武田全軍を海津城に入れました。海津城と妻女山の頂上の越後軍との距離は直線で2キロほどであり、海津城からは武田軍の「風林火山」の旗が、妻女山の頂上からは上杉軍の旗印である「毘」と「乱れ龍」の旗がそれぞれはためく状況になりました。

こうなると両軍勢とも動けません。城を出て戦う事も山を下りて戦う事も自殺行為になり動きが取れない状況になります。武田の重臣たちはいっそこのまま越後に向かって侵攻しようと申し入れましたが、そんな事をやれば越後軍は兵隊のいない甲斐にそのまま攻め込みます。しかも武田軍が越後に向かうには善光寺の越後兵5000とまず戦わなければならず圧倒的に不利です。武田晴信善光寺に大量の越後軍を残して現れた上杉輝虎の意図をここで初めて知る事になります。敵を囲んで戦うはずだった武田勢が善光寺と妻女山の越後勢に挟み撃ちにされている状態になっており、囲まれているのは自分たちのほうであります。全く海津城から動けない状況になってしまいました。

キツツキの戦法

この膠着状態は10日以上も続きました。気が短いと思われていた上杉輝虎は全く動く気配を見せようとはせず、毎夜妻女山からは能を舞う声が聞こえてきて越後勢は能を見て楽しんでいる様子です。

この緊迫状態を打開する方法を考えて武田晴信に伝えたのは武田軍の軍師であった山本勘助だと言われています。彼はキツツキが虫を取る為に反対側から木をつつき、這い出た虫を捕まえるように武田軍を2つに分け、一隊が夜に妻女山の反対側から奇襲を仕掛けて奇襲に驚いて山を下りてきた越後軍を武田の本隊が八幡原で待ち伏せして襲い掛かるキツツキの戦法を提案します。

確かにこの作戦なら越後軍を壊滅させる事も可能で城にこもった武田全軍を動かす事も出来る訳です。武田晴信はこの提案を深く考えて実行する日取りを決め、この戦法で上杉輝虎の率いる越後軍と戦う決意をしました。武田が軍勢を動かすのはこの方法しかないのが現実だと晴信は考えたのです。

妻女山の上杉輝虎

キツツキの戦法を実行する事が決定し、その日も決まりました。

その作戦決行の前日に妻女山の頂上から海津城を見ていた上杉輝虎は炊飯の煙がいつもより明らかに多い事に気付きます。彼が越後軍を妻女山の頂上に布陣させた目的は守りを固める為では無く武田軍を動かす事にありました。

炊飯の煙がいつもより明らかに多いという事はそれだけたくさん飯を炊いている事であり、それは兵士の弁当にする為としか考えられない。今夜武田軍は必ず動く。上杉輝虎は一瞬で武田軍が苦労して考えたキツツキの戦法を見破りました。

越後軍全軍に指令が出ました。今夜武田軍は背後から攻めてくる、我々は全員その前に妻女山を下りて武田本陣がいる八幡原に布陣し夜明けとともに襲い掛かり一気に武田を滅ぼす。

やはり上杉輝虎は戦の天才であり、瞬間的に武田勢の作戦を全て見破って先手を打ちにかかりました。その夜、越後軍全軍は妻女山を下りて武田晴信が本陣を張る八幡原に急行しました。

やがて夜が明け、武田晴信の本陣も明るくなってきました。そこで武田軍は信じられない光景を見ます。いる筈の無い越後軍が目の前に軍勢を整えて襲い掛かろうとしている景色です。軍勢を分けてしまった事が災いとなり、武田晴信の率いる甲斐軍勢は窮地に追い込まれてしまいました。第四次川中島の決戦はこうして始まったのです。

あとがき

軍議と呼ばれた戦いの作戦会議を武田晴信はいつも重視して、どんな身分の侍の意見であっても有効だと思われる提案には積極的にそれを採用して戦に生かしてきました。

この晴信と全く逆で戦の作戦を一人で立て、周りの意見に一切左右されず、しかもその状況によってはいつでも自由に作戦を変更して実行していたのが上杉輝虎でした。

しかし彼は決して冷たい独裁者では無く自分が神の化身であるとの信念のもとに行動していた人物でした。国造りについてもこの両者は全く違った手法を取っています。

国内の問題を解消し、洪水を無くし石高増やして平和な領国を作った武田晴信に対して上杉輝虎が行った国造りは諸国との貿易です。この諸国とはこの時代は日本国内が主でしたが上杉氏は彼自身がトップセールスマンになって越後の産物を日本中に営業して回りました。これは二人の性格も関係していますがその領国の違いも多分にあると思います。山だらけの甲斐とは違い越後はコメの産地で有名であり、この二人の戦国大名の領国の財政状況は全く違います。佐渡から金山が発見されるのは上杉謙信の死後ですが、金山とは関係なく越後は非常に豊かな領国であり府内湊は日本海で最高の貿易港でした。

しかしこれは上杉謙信より武田信玄が劣っていたという事では決してありません。この川中島での決戦で絶体絶命に立たされた時に武田晴信はその真の力を発揮して甲斐の軍勢を守り抜きます。この状況でこれが他の武将であれば確実に滅ぼされていますが的確な判断と冷静な指示によって逆にこの合戦で徐々に上杉輝虎を追い詰めていったのは武田晴信の才能としか言いようがありません。

この二人に共通しているのは非常に自分に厳しい事です。上杉謙信は死ぬまで自分が決めた仏教の戒律を守り抜き、武田信玄は自国に全く新しい法律を作って自分も例外では無くその法を守り抜きました。全くタイプの違う二人ですがかなり共通点も多いのが現実でそれが歴史の面白さだと私は思います。

さて、次回はいよいよ決戦に突入します。この戦いの最初から最後までを「川中島決戦(三)勝利と敗北」として書きたいと考えています。この戦いでこの二人は何を得て何を失ったのでしょうか?

次回も宜しくお願い致します。