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須佐之男の戦国ブログ

川中島決戦(三)勝利と敗北

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前書き

これまでのこの第四次川中島決戦で、武田晴信は悉く上杉輝虎に作戦の裏を読まれて、逆を突かれてきた感がありますが、当人の武田晴信からすればすべて想定の範囲であり上杉輝虎が簡単に自分の作戦通りに動くとは考えてはいませんでした。両雄ともに相手の事は研究し尽くしており、この八幡原で正面衝突するまでは武田晴信想定の範囲内に越後軍は動いていました。

しかしあれほど考えて実行したキツツキの戦法を一瞬で見抜いて武田本軍の正面に夜明けとともに現れた越後軍勢は完全に想定外であり正面決戦がこんな形で始まるとは到底考えていませんでした。

それでは武田軍はどうすれば良いのか? 晴信の冷静さは一向に失われいません。自分の想定内に再び相手を引き込む事であり、その為に何をすれば良いのかを瞬間的に考えました。間も無く越後軍が攻めてくる事は間違いが無く、その中で自分が取るべき最善の方法を考えたのです。

守りに徹せよ

武田晴信は八幡原の武田全軍を攻撃にも守りにも適した「鶴翼の陣」と呼ばれる鶴が羽を広げた様な陣形にすぐさま整えました。そして各部隊に指示を送ります。「決して相手を攻めず守りに徹せよ、絶対に攻めては駄目だ」という指令です。武田軍が不利なのは軍勢を二つに分けてしまったからであり妻女山に登った軍勢は必ずここに駆けつける。そうなれば上杉軍を前後から挟み撃ち出来る事になる。その状況になるまで被害を最小限にとどめる事が唯一の勝利への道であり、それまでは守りに徹して持ち堪ようと考えた訳です。

夜明けとともに上杉輝虎の越後軍は「車掛りの陣」と呼ばれる攻撃型の陣形になって武田晴信の鶴翼の陣に襲い掛かりました。非常に強力な軍勢が回転しながら常に新しい軍勢を繰り出してくるこの戦法に武田軍は防戦一方になりました。前備えと呼ばれる最前線部隊は瞬く間に壊滅し中備えの部隊がその後を継ぎ、一番の後方部隊である後備えにまで上杉軍の攻撃は及びました。後備えが崩されればもう部隊はありません。本陣に上杉軍は斬り込んできます。中備えと後備えは必死になって越後軍の猛攻に耐えていました。

上杉輝虎の作戦

時間が勝負の鍵である事は上杉輝虎も勿論解っていました。後方に分かれた武田軍が現れる前に本陣に斬り込み晴信の首を取る事が勝敗を分けます。しかし考えていたよりもはるかに武田軍の防御能力は高く簡単に攻撃が出来ていた訳ではありませんでした。

上杉輝虎の元に武田軍の軍勢の配置図が届きました。見ると右備えは晴信の長男である武田太郎義信の軍勢です。この配置図を見た輝虎は右備えへの総攻撃を命じます。しかもその指示は戦った後に負けたように見せて軍勢を引くように指示を出しました。

太郎義信は若い、こちらが引けば必ず攻めに出てくると見た作戦です。その通りで越後勢が引くと右備えは攻めの陣形に変わりました。そこを一気に側面から攻撃を加えて右側に穴を開け、キリで穴を開けていく様にして越後軍は武田軍の最後尾の部隊である後備えに襲い掛かりました。この部隊は晴信の弟である武田信繁が率いる部隊であり武田の軍師である山本勘助も入っています。越後軍は山本勘助を打ち取り、武田信繁も打ち取って後詰めの部隊を一気に崩すと晴信の本陣になだれ込みました。鶴翼の陣は完全に崩された事態に変わりました。

武田別動隊到着

この武田本陣に上杉軍が迫った時に上杉輝虎に報告が入りました。分かれていた別動隊の武田軍が到着し、後方の上杉軍に襲い掛かったとの連絡です。この報告を受けて輝虎は全軍を武田本陣に突入させる命令を出しましたが別動隊の到着を聞いた晴信は全軍に攻めの合図を出し、武田全軍が今度は上杉軍に襲い掛かってきました。今度は危なくなったのは上杉輝虎のほうです。

時間的に本陣を崩す事の無理を感じた上杉輝虎は越後軍全軍に善光寺にいる越後軍との合流を命じました。その後は全く形勢が逆転です。逃げる上杉軍を一方的に武田軍が追いかける展開になり、何とか越後軍は善光寺の部隊と合流し善光寺に陣形を構えました。その報告を聞くと晴信は武田全軍に引けの合図を出し、自分も甲斐に向かって引き上げました。この一日で両軍に膨大な死傷者を出した第四次川中島の戦いはこうして終わりました。

勝利と敗北

この戦国時代に最強と思われる両雄が正面から激突した第四次川中島の戦いで全く勝敗が付かなかったことが皆様にはお解りでしょうか?  人それぞれの考えがあり、武田が勝っていた、上杉が勝っていたと意見が分かれるのは仕方が無いと思います。

しかし両軍勢ともに多大な被害を出し、結局はその前の状況と殆ど何も変わっていません。

川中島という領土を守り、その地で踏ん張り続けたのは武田晴信です。この意味では武田の勝利だと思います。しかし上杉勢と比較して1000人以上も多くの戦死者を出し、その中には晴信の最も信頼してきた弟の武田信繁や武田軍の軍師であった山本勘助も含まれています。これを勝利とは絶対に呼べないと私は思います。

一方の上杉軍ですが武田軍と比較して戦死者も少なく重臣が打ち取られてもいません。しかし、それはこの一回の戦で武田軍を滅ぼすのをあきらめて善光寺に軍勢を移した結果であり決戦場から退いた結果です。これも勝利とは呼べないと思います。

この両雄ともに周辺国に勝ったのは自分であると報告していますが、両軍勢ともしばらくは戦に出陣する事も不可能な痛手を受けた訳でありいくら考えても「引き分け」としか言えない勝負だと思います。この後、もう一度両者は対戦しますが、それは両雄とも形だけの出陣でした。

この後上杉氏は戦の場を関東平野へと完全に移します。武田晴信も北への侵攻は完全にあきらめて今川義元織田信長に殺された後の駿河への攻略を開始します。この戦国時代の両雄がこの戦で感じたのは「勝利と敗北」の両方であり無理に強敵と争う事の無駄さを両者が感じたのは確実だと思います。

あとがき

今回のブログを含めて3回にわたって第四次川中島の戦いを記述してきましたがいかがでしたでしょうか?  この激戦を一度のブログで書ききるのは私の能力では絶対に無理でありどうしても複数回に分ける事になりました。ご了承ください。

この後に武田晴信三国同盟を一方的に破棄して太平洋側の海を求めて駿河に攻め込みますが甲斐という地理上の欠点をつかれて思わぬ経済制裁を受ける事になり、それを助けたのは今回激戦を繰り広げた上杉輝虎でした。

次回のブログはその状況を中心に取り上げた「敵に塩を送る」を記述したいと考えています。宜しくお願い致します。