須佐之男の戦国ブログ

織田信長の軌跡(三)

美濃攻め(2)

美濃攻略

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前書き

前回のブログは墨俣城築城の寸前で終わりましたので、今回は墨俣城築城から織田信長が完全に美濃を落とすまでの経緯を記述します。

信長にとってこの美濃攻略は斉藤道三の敵討ちだけでは無く、上洛の為に絶対に必要でした。東は徳川家康と北は近江の浅井長政と同盟を結んだ信長にとって隣接する敵地は美濃だけになった訳であり、ここを攻略しない限り、尾張の軍勢は決して京に向かって動けなかった訳です。しかし道三の跡を継いだ斉藤義龍、その子の龍興に替わっても美濃の斉藤勢は非常に強力であり、尾張勢と互角の戦いを繰り返していました。

ですから信長は敵の領土内に砦を作り状況の打破を考えた訳であり、最終的にその役目を木下藤吉郎秀吉が担当する事になりました。極めて困難な仕事であり、織田信長の美濃攻略はこれ以降は秀吉が中心になっていく事になります。

一夜城建築

秀吉が考えたのは確かにこの地は敵の領土であり、戦いながら砦を創る事になるのは間違いの無い事でありますが、墨俣は長良川木曽川との間の三角州であり、川を背にして戦えば、後ろは川であり敵は前方からしか攻めて来られず守りを前面だけに集中させられる事であり後面の敵のいない川を利用する事でした。

彼が築城任命後に直ちに向かったのは墨俣よりも川上で尾張領土である山林です。そこで秀吉は材木を切り取り砦構築に必要である建材を全て手に入れました。尾張の領国である為に建材は簡単に手に入った訳です。

次に手に入れた建材を使って墨俣よりはるかに上流で斉藤勢から一切見つからない場所で砦を組み立てます。完成した砦には番号を付けてから解体しました。そしてすべての建材を川に運び、筏にして夜になるのを待って川に流した訳です。プラモデルを組み立てた事がある皆様には解ると思います。複雑なプラモデルが短時間で完成するのは番号通りに組み立てる事が出来るからであり、プラモデルの素材がはじめから加工なしに組み立てられる様な形をしているからです。それをこの時代に秀吉は実行しました。

筏にした建材を川を流す作業はその仕事に慣れている川並衆がすべてこれを請け負いました。上流から夜に流された建材は下流の墨俣で引き上げられその夜のうちに番号通りにもう一度組み上げられていきました。

次の日の朝になって斉藤勢が墨俣を見ると砦が組みあがっており、その周りを織田勢がアリの群れの様に集まって警備している。これではもう手の出し様がない訳です。後に「墨俣の一夜城」と呼ばれる砦はこうして完成しました。

美濃攻略

しかしこの砦を完成させた秀吉は美濃攻略を決して焦りませんでした。墨俣に攻めてくる敵を撃退しながら以前にも増して諜報活動により斉藤勢の内部の切り崩しにかかります。斉藤勢の本城である稲葉山城は極めて頑強な城であり、普通に攻めても簡単には落ちない事を彼は解っていました。内部の切り崩しにより、一気に城を落とす事を秀吉は考えた訳です。

そうしているうちに稲葉山城の裏側に向かうルートを彼は手に入れました。そこから城に侵入する事を彼は考えた訳です。その日取りに合わせて信長は尾張勢を伊勢方面に出陣させるような体制を取りました。そして秀吉が城に侵入する日の夜に合わせて稲葉城の正面に布陣した訳です。一方の秀吉は30人ほどの手勢を引き連れて稲葉城の裏側から城内に忍び込み美濃勢のふりをして城内に火をつけて回りました。

豊臣秀吉の旗印をご存知のかたはいらっしゃいますでしょうか?  秀吉の旗印は「千成瓢箪」と呼ばれるヒョウタンの形をしていますが、その原点はこの美濃攻めにあります。稲葉山城正面に布陣する信長勢に城内に侵入し作戦が成功した事を知らせる合図が持ってきたヒョウタンを槍の上に付けて高く掲げる事で城外にいる信長に知らせる事でありました。ヒョウタンを確認した信長軍は正面から一斉に正面から稲葉山城に攻め込みます。城門を破って侵入した秀吉の別動隊を早く助けないと別動隊が全滅します。信長軍は一気に城内に突入して別動隊と合流し稲葉山城はその日のうちに陥落しました。

織田信長の美濃攻略が完全に成功した瞬間です。

その後の織田信長

美濃を完全に手に入れた織田信長はまず稲葉山城の大幅な改築を命じました。そして完成した城に「岐阜城」という名前を付けて信長の本城にして家臣もその家族にもすべてこの岐阜城へ引っ越しさせます。この「岐阜」という名前は古来の中国で「岐山」という場所から天下を取ったという言い伝えから来ていると言われていて信長の天下に対する強い決意を感じます。またこの頃から信長が各地に届ける書状には「天下布武」の烙印が使われ出します。これは「武力で天下を治める」という意味であり、信長はその本心を徐々に形にしていった訳でした。

そんな中織田信長に大きなチャンスが訪れます。殺された室町幕府第13代将軍足利義輝の弟であり、越前で放浪生活をしていた足利義昭織田信長を頼って美濃にやってきました。信長はこの事で足利義昭を正当な将軍職として擁立する為に上洛して天下に号令する大義名分を手に入れます。京への上洛の道筋を整えて正式に信長は上洛する事を決意しました。この足利義昭の家臣であり、その後に信長に仕えたのが明智光秀であったと言われています。すべての天下取りの条件がこれで整った訳です。

あとがき

こうして織田信長は美濃一国を手に入れた訳ですが、では元の国主であった斉藤龍興に対して信長がどんな処分をしたのかといえば「美濃からの追放」であり、命を奪ったりしていません。織田信長は極めて戦国武将として温厚な性格であり、ここまでの信長のふるまいについては全く残酷な行為は一切していませんでした。信長の結んだ徳川家康浅井長政との同盟も完全に平等な同盟です。但し、家康の長男である徳川信康の嫁に信長の娘を嫁がし、夫婦仲がうまくいっていない事を理由に信長は家康に信康とその母親に切腹を命じました。しかしこれは徳川家康の正室が今川家の出身であった事や娘を心配する親心と取れない事も無く特に信長がこの時代特に残酷な武将であったとは言い難い話です。織田信長は朝廷に御所や京の荒れ果てた街を整備する金も充分に出しており、自分を頼ってきてくれた足利義昭も大切に扱っています。

ところがある事件を境に信長は窮地に追い込まれて、その後彼の性格は大きく変わります。信長はこの事件以降は完全に人から鬼へと変わったと言っても良く、それまでの温厚な性格の信長とは完全に別人に変貌します。

その事も数回先のブログで触れていく予定であり、その為に信長は日本中の武士も一般庶民も敵として戦う事になるのですが次回のブログは「織田信長の軌跡(四)信長上洛」を記述したいと考えています。宜しくお願い致します。